に對して冷たくしてゐたわたしの氣持を諒として[#「諒として」は底本では「凉として」]下さい。やがて立ちなほつて、賑やかな家族になつておめにかゝります。女房も今年の夏は子供を生みます。自分の子供だと信じてゐます。どうぞお元氣でゐて下さい。もん[#「もん」は底本では「も諒」]は讀んでゆきながら涙が溢れてゐた。いろんな追憶は悠々と未來の海から吹いてくる風に[#「風に」は底本では「風を」]かき消されて逝く。一年一年と忘却のかなたへ去つてゆく歳月を見送つて、もんはただ呆んやりしてしまつてゐる。女學生時代には考へてもみなかつた少女らしい夢が、いまごろになつて青い炎を燃しはじめてゐるのだ。神樣、私と云ふ女だけが間違つた生きかたをしたのでせうか……。すべては流過のたゞなかにあるのだ。大にしては今日戰ふ國々があり、小にしては、人間のはしくれである、自分のやうな生きかたまでも……すべては歴史のなかに流れてゆくのである。工藤のこゝろを惹くために死んでみようなぞと考へてゐた事が莫迦々々しく思はれてならなかつた。そのくせ、米倉と結婚する氣持には少しもなれなかつた。もんは蘇州で夏をすごしてからめつきり躯を惡くして、醫者からは歸國をすゝめられてゐた。一年近くも住んでみれば上海も蘇州もなつかしかつた。九月半ば、もんはやつとの思ひで上海へ戻り、工藤とはたつた一度支那料理店で逢つたきりで、もんは一年ぶりに東京へ戻つて來たのである。いまは東京には弟の守一ひとりしかゐなかつた。父は仙臺の田舍へもどつて、親類の家で百姓仕事をしてゐると云ふことであつたし、末弟の孝治は青少年義勇隊に應じて、滿洲のジヤムス近くにある追分と云ふところに行つてゐると云ふことだつた。久しぶりに東京へ戻つてみるとたつた四人暮しの肉親の上にも大きい身上の變化があつた。躯の弱い孝治が滿洲へ行つて、どんなに暮してゐるのか、もんには氣がかりで仕方がなかつたけれど、孝治には孝治の考へもあつたことであらうともんは心のなかではあきらめてゐた。――今夜は久しぶりに芝居に行つてみてはどうかと、淋しそうにしてゐるもんへ、守一が歌舞伎の切符を一枚買つて來てくれた。久しぶりに日本の古い芝居を見てゐると、何となく落ちついた氣持になつてくる。笛やたいこや三味線の音色が一つ一つ耳に澄んできこえた。上海や蘇州の町に住んでゐたと云ふことがまるで夢のやうだつた。舞臺は妹背
前へ 次へ
全17ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング