子姉さんみたいにもりもり大きくなるんだよ‥‥」
 謙一は病氣と鬪ひながら、この淋しい海邊で暮してゐる若い埼子が可哀想でならなかつた。

 謙一は埼子の家とは遠縁にあたつてゐて、早稻田にはいつた時から、ずつと埼子の家に下宿をしてゐた。謙一は埼子の姉のカツ子が好きで、大學を卒業して職につくことが出來たら、カツ子を妻に貰ひたいと考へてゐたのだ。
 だけど、カツ子はいつの間にか平凡な見合ひをして地味な商家へとついで行つてしまつた。
 掌中のものを盜まれたやうに、一時は氣拔けがして呆やりしてゐたけれど、謙一はすぐ立ちなほることも出來たし、また、以前のやうな規則正しい學生生活をとり戻すことも出來てゐた。
 謙一とカツ子のあひだの、かすかな思慕の流れを、埼子はいつの間にか鋭敏に感じてゐて、ちやんと知つてゐた。その鋭敏さは、むしろ病的な位に「何か」をつけ加へて大きく考へてゐるらしい樣子でもある。
 カツ子のやうにふとらなくてはいけないと云ふと、ふつと埼子が默つてしまつたのを、謙一はまた溜息をつきながら反省しなければならない。
「僕は、そのうち、もう一二度、千葉へ來ますよ、埼ちやんには、まだまだ、いろんな話をしたいと思つてゐるンだ。――カツ子さんのことに就いては埼ちやんが考へてゐるやうな重大なことは何もなかつたんだし、僕にはそんな烈しいことは何も出來ない。カツ子さんも埼ちやんが知つてゐるやうに、中々堅實な地味なひとなンだし、いまはむしろ、僕は埼ちやんをお嫁さんに貰へれば貰ひたい位に考へてゐるけれど、僕には職業を捨ててしまつて埼ちやんのそばにつききりでゐられる自由もないのだし、‥‥結局は、埼ちやんが躯をよくして、滿洲へ來てくれることだな‥‥男は、功利的な意味ではなく、職業の爲には折角の戀愛も捨てなければならない場合もあるンだ。わかるかなア‥‥僕は今どんな素晴らしい戀をしてゐても、どうしても新京へ行つてしまふだらうし、新しく仕事に出發してゆく氣持は、現在の僕にとつては何ものにも替へがたい‥‥」
 埼子は默つてゐた。明るい陽が疊いつぱいに射して、謙一の影が肥えた傴僂のやうに疊にくつきりと寫つてゐる。
「だから、もういゝのつて云つたでせう? 私は新京なんかに行けやしないわ‥‥私だつて、私の生活があるンだし、もう、このまゝお別れでいゝと思ふの。私は病氣なのだもの‥‥」
 謙一は誰かに呼ばれたやうな氣がして、くるりとふりかへつて濱の方を眺めた。延岡が青い顏をして垣根の外に立つてゐた。
「どうしたンだ?」
「昨夜、驛の前の宿屋に泊つたンだ‥‥帽子を忘れて取りに來たンだよ」
「まア、這入つて來いよ‥‥」
 謙一は眼鏡をずり上げてすぐ階下へ降りて行つた。埼子は、籐椅子から降りて窓邊にゆき、小さい聲で歌をうたつてみた。あの波も、あの空も一瞬のながれであり、すべては木ツ葉微塵だ。謙一の新しい出發に對して、狹い女の嫉妬が自分を苦しめてゐる。自分は謙一を奪ふことが出來ない。男の仕事と云ふものは、そんなに男にとつて魅力のあるものだらうかしら‥‥。自分は、これからも、この濱邊で暮さなければならないし、病氣に脅かされて、毎日、不機嫌に暮さなければならないのだ。
 人間の生活とはいつたい何だらう。‥‥人間が生活々々と呼んで生活へ進んでゐるその「生活」とはどんな生活なのだらう。
 埼子は皮膚をかきむしられるやうに耐へがたい氣持だつた。
 濱邊を點のやうになつて、櫻内や中堀たちが戻つて來てゐる。埼子は窓から白いタオルを振つた。櫻内も中堀も馳け足で戻つて來てゐた。(あゝ、あの人たちもこれから新しい生活へ進んでゆくのだわ‥‥)埼子はハンカチを振りながら、明日から自分だけが、またこの海邊にのこつてゐるのだと思ひ、妙に感傷的になつてゐる。
「ぢやア、さよなら、下駄は驛の前で買つたンだよ‥‥」
「あゝさうか。東京へもやつて來いよ‥‥」
「うん、また、君が新京へ行くまでには、一度、たづねてゆくよ‥‥」
 垣根の外へ、延岡の鼠色のソフトが見えた。延岡は一度もふりかへりもしないで、生垣に沿つて、櫻内とは反對側の方を歩いてゐる。
 海が急に昏くかげつて、風が出はじめたのか、まるまつた新聞紙が、垣根のそとを石崖の方へ風に吹かれて行つた。



底本:「惡闘」中央公論社
   1940(昭和15)年4月17日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※疑問点の修正に当たっては、「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版、1974(昭和52)年4月20日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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