つて? 羨ましくて仕方がないなア‥‥僕ももう何處か遠い處へ行きたくなつた。清水のやうに大學卒業ででもあれば、どつか素晴らしい處へ、就職の方法もあるんだが、何しろ中學卒業ではどうにもならん」
 延岡は段々醉つて來ると、保線に勤めて、土方のやうなことをしてゐる俺だけれど、そのうち素晴らしい仕事を探すのだと云つて、一人で痩せたこぶしを膝の上で握りかためてゐた。自分だけがいまにも大きな出世をしてみせるぞと云つてゐるやうな、田舍者の無遠慮をまるだしにしてゐる延岡に、櫻内は段々不快なものを感じてきて、急に默りこんで酒をあふつてゐた。
「まア大學を出た處で、君たちはこれからが大變だぜ、いままでは學校の思想の枠の中で、メリーゴーラウンドしてゐればよかつたのだが、我々若いものは、我々若い者だけの思想をつかまなければいけないねえ。自力で思想をつかむことが大切だ‥‥」
「へえ。自力の思想を持つてゐると云ふのは君一人とでも云ふのかね? 君の思想とはどんなものだい?」
 櫻内は青くなつて、腫れぼつたい眼を細めて、じつと延岡を睨みつけた。その表情の中には、何かしら勃々とした怒りが走つてゐる。
 埼子の母は二階に學生たちの寢床を敷いておくと、眠さうな喬を引きとつて、さつさと埼子の部屋へ引きさがつてしまつた。謙一は、いまでは、延岡の訪問を後悔してゐるやうであつたけれど、二人の話の途中にはいるのも自分が弱いやうで、しばらく默つてゐた。
 おとなしい中堀がふと、何氣ない風で、
「君はそんなに學問と云ふものに憧憬してゐるのかね? 學校の思想の枠の中でメリーゴーラウンドしてゐるとはどう云ふ意味かわからんけれど、今夜はまア清水君や僕たちの送別の宴なのだから、むづかしい話はよし給へ!」
「あつはッはッ‥‥むづかしい話かねえ? これが‥‥」
 延岡はいかにも愉快さうに大笑しながら、箸を煮えつまりかけてゐる鍋の中へつゝこんだ。すると、櫻内は急に大きな聲を出して、
「莫迦野郎! いつたい誰を侮辱してゐるんだツ!」
 と、延岡のつき出してゐる手の箸を引つたくつて硝子戸へぴしやツと投げつけた。箸をとられた延岡は、むくつと立ちあがつた。立ちあがるなり目の前にあるビール瓶をつかんで、櫻内の顏面をめがけて力いつぱい投げつけた。躯をかはした櫻内が、疊にうつぶすのと、瓶が床の間の壁へづしりと響いたのと同時だつた。顏をあげた櫻内は、ビール瓶で鼻でも打つたのか、唇や顎の邊へ鼻血が吹きこぼれてゐる。一瞬の出來事だつたので、謙一も中堀も埼子も呆氣にとられて息を詰めてゐた。
 櫻内は右手で鼻血をこすると、すぐ延岡の胸倉をつかんで、縁側の硝子戸を引きあげて、砂地の庭へ飛び降りて行つた。二三度、烈しい頬打ちの音や、烈しくつかみかかる躯の音がした。海の音ががうがうと響いてゐる。
「おい! もういゝよ、やめろよ‥‥」
 中堀が縁側へ出て行つたが、二人は固く組みあつて砂の上をごろごろ轉げまはつてゐた。謙一も縁側に出て行つたが、默つてつゝ立つて二人の喧嘩を、ぢつと眺めてゐた。――就職したよろこびの底には、學生生活を離れて遠くにちりぢりになつてゆく一抹の淋しさが、誰かに甘えたいやうなやるせなさで、この一ヶ月あまり、自分たちの氣持を焦々さしてゐたのだ。櫻内が力いつぱい戰つてゐる姿は、謙一には色々ななごりの反射を浴びてゐるやうで見てゐて爽快だつた。喧嘩になると、鹿兒島生れの櫻内は唐手の選手なので、延岡は敵ではなかつた。二三度揉みあふうちに、延岡はすぐ櫻内の下敷になつてうんうん胸を締めつけられてゐる。
「おい櫻内! もういゝよ、やめ給へツ」
 中堀が下駄をつゝかけて庭へ降りて行つた。延岡は洟やよだれをづるづる出して、齒ぎしりをして唸つてゐる。
「へつぽこ大學生に負けてたまるものか!」
 延岡は締めつけられながらも、まだ毒づいてゐた。謙一はそれを聞くと、急に沓下のまゝ庭へ飛びおりて行つて、二人の間を引きはなすと、
「延岡! 貴樣歸れ!」
 と、大きい聲で呶鳴つた。立ち上つた延岡は胸をはだけて、唇尻には少し血がにじんでゐた。酒臭い息を吐いてしばらく櫻内を睨んでゐたが、そのまゝ延岡は庭の外へすたすたと跣足で出て行つてしまつた。
「あら、あの方、帽子があるわ‥‥」
 埼子が帽子を持つて來たが、誰も帽子を持つて行つてやるものはなかつた。
「生意氣な奴だ。どうしてあんなのを呼んだンだ?」
 櫻内が謙一に詰問してゐる。埼子の母が驚いてわくわくしてゐたが、すぐに雜巾を持つて來て謙一にわたした。謙一は雜巾を櫻内に取つてやつて、自分は沓下をぬいで座敷へ上つた。やがて、遠くの濱邊を歸つてゆくらしい延岡の歌聲が、風に吹き消されるやうに小さくかすかにきこえて來た。
「いゝ人物なんだがねえ、田舍にゐると、意識過剩になつて、あんなに妙な人物に風化されてしまふんだよ‥‥」
「何か知らんが妙な奴だねえ、いやに年寄くさくて、自分はいつぱしの苦勞人だと云つたやうな、あんな態度は男らしくないよ。いくつなんだい?」
「二十五だつたかな、ひがみの強い奴だなア、あんなだとは思はなかつた‥‥社會へ出たのは俺が先輩だぞとよく云つてゐたが、あんなに單純な奴とは思はなかつた‥‥僕たちだつて、遠い土地へ行つて、いつとき會社勤めをしてゐたら、あんなにうすぎたない氣持になるんぢやないかな‥‥」
「酒癖はよくないねえ‥‥」
「うん、醉はないと、中々面白い。それこそかど[#「かど」に傍点]のとれた圓滿な男なんだがね‥‥」
「驛へ勤めてゐるのは結構ぢやアないか、自分で卑下して、人にからんでくる奴は厭だねえ‥‥」

       ○

 翌朝、埼子は二階の狹いサン・ルームで日光浴をしてゐた。背中を陽にあてて籐の寢椅子に半裸體の姿で横になつてゐた。そして靜かに本を讀んでゐる。昨日のさうざうしい青春の波は、窓の向ふの波のやうに非常に靜かにおだやかになつてゐる。――ライン河畔のリューデスハイムの町から、下流に下つてゆく白い遊覽船に、三人の青年と三人の娘の一組が乘つてゐた。この一組は學生劇の連中で、ラインの上流をたつた六人で芝居をうつてまはつたけれどいづれも不入りで、リューデスハイムの町へ泊つた時には、宿賃だけでパンを食べることも出來ない貧しさであつた。その時、宿屋の庭に馬に乘つて來た老紳士が、此の悄然たる若者たちを氣の毒がつて、下流の賑やかなケーニヒス・ヴィンターの町や七ツの山の見えるノンネンベルト島なんかへ案内をしてくれる。金持の老紳士は三人の女のなかの、ゲンマと云ふ娘に愛慕の氣持を持つてゐた。下流の町に着くまで、ゲンマは老紳士を思ひ惱みつゞけるけれども、最後はその老紳士の愛をしりぞけて、不安と缺乏の人生に向つて、そして何よりも尊い青春に向つて、三人の青年のなかのガイヱルと港の町へ上陸してゆく‥‥。――埼子はシュミットボンの「山の彼方」を讀んで了つてから、しばらく渦卷くやうな樣々なおもひで、本の上に顏をのせてゐた。顎の下に本の白い頁があつたけれども、その白い頁の活字の中から、冷くて底深いラインの流れが悠々と流れてゐるやうに空想された。まるで、自分が作中のゲンマのやうな娘になつたやうにも考へられて來る。この小説の中の青年や娘たちは、不安と缺乏の人生に立ちむかつてゆく勇ましい元氣があるのだ。それなのに謙一だの自分達の周圍はいつたいどうしてこんなに昏いのだらう‥‥食べることや、生活にはどうやら困らないでゐられるけれども、四圍のすべては老人臭くてごみごみしてゐて、あんなに、どの學生も職業探しに血まなこになつてゐる‥‥。二度と再びめぐつて來ない青春すらも、押しかくしてみんな毆りあつては生きてゐるのだ。
 埼子は、この海邊の別莊で、何年生きられるのかもわからなかつたけれども、何かしら、この世に生を受けて生まれて來たそのことが、悲しく切なく感傷的になつてきてゐた。
「這入つていゝ?」
「誰なの?」
「僕‥‥」
「這入つていゝわ‥‥」
 謙一は滿ち足りた眠りから覺めた明るい顏色で、のつそりとサン・ルームへ這入つて來た。
「だいぶ狐色に燒けたのね?」
「私の背中、いゝ色でせう‥‥」
 謙一はまぶしいものでも見るやうに、埼子の背中を眺めた。燒きたてのパンのやうにふつくらしてゐる。背筋の溝の線も健康さうだつた。肩の肉づきは子供のやうに薄くて、とがつたやうな左の肩さきに、陽がきらきら射してゐる。窓硝子の向ふには、白く陽に反射した海が見えた。
「謙一さんは、いつまた東京へくるの?」
「さうね、一週間ぐらゐしてかな、向ふへ行くのは二月の末か三月の始めだから、まだ、度々こゝへはやつて來ますよ‥‥」
「やつてこなくてもいゝわ」
「どうして?」
「どうしてでも‥‥あなたは、自分でどんどん何でもおやりになれるし、ちやんと方向がきまつてゐて安心ぢやないの? 私は、もうこゝで死ぬる日を待つてるだけだもの、來てくれなくつてもいゝの‥‥」
「このごろ、埼ちやんは、どうかしてるよ。どうしてそんなにひがみ[#「ひがみ」に傍点]が強くなつたのかな?」
「失禮ね、ひがんでなんかゐないわ‥‥」
 埼子は藤椅子から起きあがつて、乾いたタオルで胸や腕をこすつた。兩の乳房が、小學生の子供のやうに小さい。謙一は卓子の上の、もひとつのタオルで埼子の背中をこすつてやつた。
「カツ子姉樣はとてもふとつてたわね?」
「‥‥‥‥」
「今日はもう、カツ子姉樣の話をしてもいゝわ。みんなもうよそのひとなんだから‥‥」
 埼子はオレンジ色のブラウスを着て、胸の黒い釦を一つづつはめながら、
「櫻内さんたちどうして?」
 ときいた。
「さつき、中堀と爺やさんの案内で濱へ地引網を見に行つたんだけど‥‥」
「さう‥‥あの櫻内さんて、とても元氣な方ねえ、八幡の製鐵所へいらつしやるつて向いてると思ふわ。――みんな大學を出て、職がきまつて、戀もしないでお嫁さんを貰つて、赤ちやんが出來て、平和に一生を送るのね?」
「それでもう澤山ですよ‥‥埼ちやんは、頭の中だけで色々なことを考へて、一人で人を罰したり、人を讚めたりしてゐる‥‥人間らしい生きかたと云ふのは、結局は平凡な生涯[#「生涯」は底本では「生滅」]にあるんぢやないかな‥‥埼ちやんはあんまり小説類を讀みすぎるね。あんたは病氣なんだから、病氣に勝たなくちやいけない。やつぱり、規則正しく日光浴をして、散歩をしたり、おいしいものをたべたり、いまのところ、呑氣にそんなことをした方がいゝと思ふンだけど、埼ちやんが焦々してゐると、みんなが焦々しなければならないもの。僕は、昨日、埼ちやんが砂を運んで來てくれただらう。あんな無邪氣な埼坊が好きだなア、――就職をして、お嫁さんを貰つて、平和に生涯を終ることが出來たら結構だと思つてゐるンだ‥‥」
「おゝ厭だ。そんなしみつたれた若さだの、しなびた青春なんてきらひだわ‥‥」
「しなびた青春か‥‥さうかなア。青春と云ふものは、一々大芝居をしてみせなきやならないものとも違ふし、環境によつて、貴族の青春もあるだらうし百姓の青春もあるだらうし、僕たちのやうなサラリーマンの青春だつてあるンだ。埼ちやんが讀んでゐる小説の青春は、それはその作家の描いた芝居であつて、現實の世界に、これが僕たちの青春でございと金看板はさげられないぢやないの? 青春の氣持なんかはその人々で生涯持つことも出來るだらうし、僕は平凡に就職して、親爺やおふくろによろこんで貰ふことで滿足だな‥‥」
「‥‥‥‥」
「埼ちやんに云はせると、與へられた職なんかも時には放つたらかして、一人の女を熱愛することが青春なんだらうけど、それだつて結局はたかが知れたものだ‥‥」
 謙一は窓邊に行き、窓を開けて海を眺めてゐた。海の色は段々青く染まつてきてゐる。空には小さい白雲が吹き流れてゐた。
「そりやア謙一さんは、長生きをする方だからそんなことが云へるのよ。私は、‥‥私は、いつ死ぬるかもわからないンですもの‥‥」
「何を云つてるンだ。病氣なんかに負けちやいけないとさつき云つたでせう‥‥少しのんびり保養をしてゐたら、埼ちやんなんか若いのだから、すぐカツ
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