うな氣がして、くるりとふりかへつて濱の方を眺めた。延岡が青い顏をして垣根の外に立つてゐた。
「どうしたンだ?」
「昨夜、驛の前の宿屋に泊つたンだ‥‥帽子を忘れて取りに來たンだよ」
「まア、這入つて來いよ‥‥」
謙一は眼鏡をずり上げてすぐ階下へ降りて行つた。埼子は、籐椅子から降りて窓邊にゆき、小さい聲で歌をうたつてみた。あの波も、あの空も一瞬のながれであり、すべては木ツ葉微塵だ。謙一の新しい出發に對して、狹い女の嫉妬が自分を苦しめてゐる。自分は謙一を奪ふことが出來ない。男の仕事と云ふものは、そんなに男にとつて魅力のあるものだらうかしら‥‥。自分は、これからも、この濱邊で暮さなければならないし、病氣に脅かされて、毎日、不機嫌に暮さなければならないのだ。
人間の生活とはいつたい何だらう。‥‥人間が生活々々と呼んで生活へ進んでゐるその「生活」とはどんな生活なのだらう。
埼子は皮膚をかきむしられるやうに耐へがたい氣持だつた。
濱邊を點のやうになつて、櫻内や中堀たちが戻つて來てゐる。埼子は窓から白いタオルを振つた。櫻内も中堀も馳け足で戻つて來てゐた。(あゝ、あの人たちもこれから新しい生活へ進んでゆくのだわ‥‥)埼子はハンカチを振りながら、明日から自分だけが、またこの海邊にのこつてゐるのだと思ひ、妙に感傷的になつてゐる。
「ぢやア、さよなら、下駄は驛の前で買つたンだよ‥‥」
「あゝさうか。東京へもやつて來いよ‥‥」
「うん、また、君が新京へ行くまでには、一度、たづねてゆくよ‥‥」
垣根の外へ、延岡の鼠色のソフトが見えた。延岡は一度もふりかへりもしないで、生垣に沿つて、櫻内とは反對側の方を歩いてゐる。
海が急に昏くかげつて、風が出はじめたのか、まるまつた新聞紙が、垣根のそとを石崖の方へ風に吹かれて行つた。
底本:「惡闘」中央公論社
1940(昭和15)年4月17日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※疑問点の修正に当たっては、「林芙美子全集 第十五巻」文泉堂出版、1974(昭和52)年4月20日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:花田泰治郎
2005年6月27日作成
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