ど‥‥」
「さう‥‥あの櫻内さんて、とても元氣な方ねえ、八幡の製鐵所へいらつしやるつて向いてると思ふわ。――みんな大學を出て、職がきまつて、戀もしないでお嫁さんを貰つて、赤ちやんが出來て、平和に一生を送るのね?」
「それでもう澤山ですよ‥‥埼ちやんは、頭の中だけで色々なことを考へて、一人で人を罰したり、人を讚めたりしてゐる‥‥人間らしい生きかたと云ふのは、結局は平凡な生涯[#「生涯」は底本では「生滅」]にあるんぢやないかな‥‥埼ちやんはあんまり小説類を讀みすぎるね。あんたは病氣なんだから、病氣に勝たなくちやいけない。やつぱり、規則正しく日光浴をして、散歩をしたり、おいしいものをたべたり、いまのところ、呑氣にそんなことをした方がいゝと思ふンだけど、埼ちやんが焦々してゐると、みんなが焦々しなければならないもの。僕は、昨日、埼ちやんが砂を運んで來てくれただらう。あんな無邪氣な埼坊が好きだなア、――就職をして、お嫁さんを貰つて、平和に生涯を終ることが出來たら結構だと思つてゐるンだ‥‥」
「おゝ厭だ。そんなしみつたれた若さだの、しなびた青春なんてきらひだわ‥‥」
「しなびた青春か‥‥さうかなア。青春と云ふものは、一々大芝居をしてみせなきやならないものとも違ふし、環境によつて、貴族の青春もあるだらうし百姓の青春もあるだらうし、僕たちのやうなサラリーマンの青春だつてあるンだ。埼ちやんが讀んでゐる小説の青春は、それはその作家の描いた芝居であつて、現實の世界に、これが僕たちの青春でございと金看板はさげられないぢやないの? 青春の氣持なんかはその人々で生涯持つことも出來るだらうし、僕は平凡に就職して、親爺やおふくろによろこんで貰ふことで滿足だな‥‥」
「‥‥‥‥」
「埼ちやんに云はせると、與へられた職なんかも時には放つたらかして、一人の女を熱愛することが青春なんだらうけど、それだつて結局はたかが知れたものだ‥‥」
 謙一は窓邊に行き、窓を開けて海を眺めてゐた。海の色は段々青く染まつてきてゐる。空には小さい白雲が吹き流れてゐた。
「そりやア謙一さんは、長生きをする方だからそんなことが云へるのよ。私は、‥‥私は、いつ死ぬるかもわからないンですもの‥‥」
「何を云つてるンだ。病氣なんかに負けちやいけないとさつき云つたでせう‥‥少しのんびり保養をしてゐたら、埼ちやんなんか若いのだから、すぐカツ
前へ 次へ
全13ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング