れてしまふんだよ‥‥」
「何か知らんが妙な奴だねえ、いやに年寄くさくて、自分はいつぱしの苦勞人だと云つたやうな、あんな態度は男らしくないよ。いくつなんだい?」
「二十五だつたかな、ひがみの強い奴だなア、あんなだとは思はなかつた‥‥社會へ出たのは俺が先輩だぞとよく云つてゐたが、あんなに單純な奴とは思はなかつた‥‥僕たちだつて、遠い土地へ行つて、いつとき會社勤めをしてゐたら、あんなにうすぎたない氣持になるんぢやないかな‥‥」
「酒癖はよくないねえ‥‥」
「うん、醉はないと、中々面白い。それこそかど[#「かど」に傍点]のとれた圓滿な男なんだがね‥‥」
「驛へ勤めてゐるのは結構ぢやアないか、自分で卑下して、人にからんでくる奴は厭だねえ‥‥」
○
翌朝、埼子は二階の狹いサン・ルームで日光浴をしてゐた。背中を陽にあてて籐の寢椅子に半裸體の姿で横になつてゐた。そして靜かに本を讀んでゐる。昨日のさうざうしい青春の波は、窓の向ふの波のやうに非常に靜かにおだやかになつてゐる。――ライン河畔のリューデスハイムの町から、下流に下つてゆく白い遊覽船に、三人の青年と三人の娘の一組が乘つてゐた。この一組は學生劇の連中で、ラインの上流をたつた六人で芝居をうつてまはつたけれどいづれも不入りで、リューデスハイムの町へ泊つた時には、宿賃だけでパンを食べることも出來ない貧しさであつた。その時、宿屋の庭に馬に乘つて來た老紳士が、此の悄然たる若者たちを氣の毒がつて、下流の賑やかなケーニヒス・ヴィンターの町や七ツの山の見えるノンネンベルト島なんかへ案内をしてくれる。金持の老紳士は三人の女のなかの、ゲンマと云ふ娘に愛慕の氣持を持つてゐた。下流の町に着くまで、ゲンマは老紳士を思ひ惱みつゞけるけれども、最後はその老紳士の愛をしりぞけて、不安と缺乏の人生に向つて、そして何よりも尊い青春に向つて、三人の青年のなかのガイヱルと港の町へ上陸してゆく‥‥。――埼子はシュミットボンの「山の彼方」を讀んで了つてから、しばらく渦卷くやうな樣々なおもひで、本の上に顏をのせてゐた。顎の下に本の白い頁があつたけれども、その白い頁の活字の中から、冷くて底深いラインの流れが悠々と流れてゐるやうに空想された。まるで、自分が作中のゲンマのやうな娘になつたやうにも考へられて來る。この小説の中の青年や娘たちは、不安と缺乏の人生に立
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