、ビール瓶で鼻でも打つたのか、唇や顎の邊へ鼻血が吹きこぼれてゐる。一瞬の出來事だつたので、謙一も中堀も埼子も呆氣にとられて息を詰めてゐた。
櫻内は右手で鼻血をこすると、すぐ延岡の胸倉をつかんで、縁側の硝子戸を引きあげて、砂地の庭へ飛び降りて行つた。二三度、烈しい頬打ちの音や、烈しくつかみかかる躯の音がした。海の音ががうがうと響いてゐる。
「おい! もういゝよ、やめろよ‥‥」
中堀が縁側へ出て行つたが、二人は固く組みあつて砂の上をごろごろ轉げまはつてゐた。謙一も縁側に出て行つたが、默つてつゝ立つて二人の喧嘩を、ぢつと眺めてゐた。――就職したよろこびの底には、學生生活を離れて遠くにちりぢりになつてゆく一抹の淋しさが、誰かに甘えたいやうなやるせなさで、この一ヶ月あまり、自分たちの氣持を焦々さしてゐたのだ。櫻内が力いつぱい戰つてゐる姿は、謙一には色々ななごりの反射を浴びてゐるやうで見てゐて爽快だつた。喧嘩になると、鹿兒島生れの櫻内は唐手の選手なので、延岡は敵ではなかつた。二三度揉みあふうちに、延岡はすぐ櫻内の下敷になつてうんうん胸を締めつけられてゐる。
「おい櫻内! もういゝよ、やめ給へツ」
中堀が下駄をつゝかけて庭へ降りて行つた。延岡は洟やよだれをづるづる出して、齒ぎしりをして唸つてゐる。
「へつぽこ大學生に負けてたまるものか!」
延岡は締めつけられながらも、まだ毒づいてゐた。謙一はそれを聞くと、急に沓下のまゝ庭へ飛びおりて行つて、二人の間を引きはなすと、
「延岡! 貴樣歸れ!」
と、大きい聲で呶鳴つた。立ち上つた延岡は胸をはだけて、唇尻には少し血がにじんでゐた。酒臭い息を吐いてしばらく櫻内を睨んでゐたが、そのまゝ延岡は庭の外へすたすたと跣足で出て行つてしまつた。
「あら、あの方、帽子があるわ‥‥」
埼子が帽子を持つて來たが、誰も帽子を持つて行つてやるものはなかつた。
「生意氣な奴だ。どうしてあんなのを呼んだンだ?」
櫻内が謙一に詰問してゐる。埼子の母が驚いてわくわくしてゐたが、すぐに雜巾を持つて來て謙一にわたした。謙一は雜巾を櫻内に取つてやつて、自分は沓下をぬいで座敷へ上つた。やがて、遠くの濱邊を歸つてゆくらしい延岡の歌聲が、風に吹き消されるやうに小さくかすかにきこえて來た。
「いゝ人物なんだがねえ、田舍にゐると、意識過剩になつて、あんなに妙な人物に風化さ
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