座で築港の問題について声高く論じあつてをりました。末席には、詰衿を着て、首のところへだけネクタイのやうに黒いマフラを巻いたひな子の先生が、蜜柑をうまさうに食べてをりました。
 座席の真中では手踊りが始まり、歌も勝手な奴が流れてきこえましたが、只さうざうしいだけで、由は呆んやりつつたつてみてをりました。
「先生は蜜柑ばア食べようて、なう、酒飲まんの?」
「酒は飲めんのんよ」
 ひな子の若い先生はわざとひな子の肩を抱いて、「可愛い子ぢやのウ」と云ふのでした。ひな子は二十四五の女のやうに老けた笑ひをしながら、姉芸者たちの真似ででもありませう、「好かんがア」と云つて、先生のひざを厭と云ふほどつねつて、由の方へ走つて逃げて来るのでありました。[#底本は次行の空きなし]

 4 由は二週間も過ぎると、妙に空漠なものが、心におそつて来て、まだ少女のくせに、夜中眠られないで困つてしまひました。うどんやの家族は四十歳になるお神さんが主人で、お神さんの両親と、お神さんの弟が一人ゐましたが、此家族は怒ることも泣くことも亦笑ふこともどつかへ忘れてでも来たやうな人達で、由が来ても、昔から由はゐたのだよと云つた風なかまへかたで、落度があつても、怒るでもなければ、言つてきかせるでもないのです。
 お神さんは家中の鍵を持つてをりました。神さんの弟は一日うどんの玉を島中へ自転車で卸しに出掛けますし、老人達は、うどんを延したり、町の共同井戸から水を汲みこんだりして、まつたく、此家族の一日は時計よりも狂つた事がありません。由はまだ子供らしさが抜けきらないのでせうか、かへつて、ガミガミ叱られた方がいいなぞと思つたりしました。初めの頃はそれでも奉公したのだからと思ひ、朝起きると煮干と昆布のはひつた煮出し袋を釜に入れ、火を焚きつけ、煤けたバンコや台の上や、棚なぞ拭くのでありましたが、日がたつにしたがつて、方作のつかないやうな錘が体中の力を鈍くしてしまふのでありました。
 何時も昼過ぎになると、海辺の空地へだしがらを筵へ乾しに行くのですが、由にとつて、これは一寸愉しい時間でありました。病院の窓からは背の低い看護婦達が顔を出して港を見ながら「吾主エス、吾を愛す」なぞと讃美歌をうたつてゐます。由は、やたらに白いものが清らかなものに思へ、自分も勉強してあのやうな歌をうたへるやうな女になりたいと何時も思ふのでありました
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