つた。私はその路地の前を通るのが厭なので、引き返して煙草屋の横へ曲つてしまつた。道がせまいので、両側の痩せた樹の間から、霰のやうな音をたてゝ私の雨傘に雨粒があたつた。誰が、あんな憎たらしい子供に金なんかやるものかと私はチヱリーを買つたことを吻として考へたのだけれども、あの子供は、雨の中を濡れながら、あの髪を剪つた女はいまいましい奴だつたと、一時間や二時間は私を呪つてゐるのだらうと思つた。いや、あんな子供の事だから、当分は私のことを呪つてゐるかも知れないと思つた。身上話なんか聞かない前に、「おばさんはお金持つてないのよ」と、言つてやれば、あんな悪体もつかれずに別れられたものを、とその日は一日ぢゆう気持ちが悪くて、オルガンのある裏の家で、沢山の子供達が騒いでゐても、何だかおびえて仕方がなかつた。
その雨の日から暫くたつて、また或る雨の日、私は友達の出版記念会の招待を受けた。長い梅雨でくしやくしやしてゐたので、私は、その友人の出版記念会に出て、久しぶりに、色々な人達に会ひ、この梅雨のうつとうしさから吻としたいと思つたのであつたが、あひにくと、その日はふところがとぼしかつた。三円の会費なので、どうしても四五円はほしかつた。私は心安い女友達に借りに行かうと、道まで出たのであつたが、その女友達の留守の場合は[#「場合は」はママ]考へると、私は、雨の道を行つたり来たりするのが面倒なので、売れさうな本を五六冊書棚から抜いてメリンスの風呂敷に包み、駅の方へ歩いて行つた。女友達はこの雨の中を朝から外出してゐて留守であつたので、私は、重い本をぶらさげて、行きつけの本屋へ行つた。本屋の若い主人は、
「いまお売りになつても損ですから、おあづかりしときませう、五円位でしたらどうぞお持ちになつて下さいまし‥‥」
さう言つて、私の持つて行つた本をまたメリンスの風呂敷に包み、高い台の上にあげて、からからと鳴る小さい金庫の中から五円札を出して借してくれるのであつた。私は毎月七八円は此本屋に払ひをするので、本屋も安心して持つて行けと言ふのであらうと、その五円を気軽に受け取り、雨で湿つた店の書棚に眼をとほしてゐると、
「ねえ、雑誌買つとくれよ」
と、言つて一人の子供が新聞包みを持つて這入つて来た。どこかで見たやうな子供だと思つた。子供は新聞包みをごぞごぞと開けて、婦人雑誌を二冊出した。
「雑誌なンていくらにも売れやしないよ、月遅れぢやないか、屑屋へ持つて行くと、これだけで五銭位には買ふよ」
「そんな事を言はないで、ねえ、買つとくれよ」
「ここは判こがなくちや買へないンだぜ」
「爪印でいいンだらう?」
「爪印? こましやくれたこと言ふ子供だねえ、この雑誌、どうしたンだい?」
「うちの姉さんがくれたンだよ」
「莫迦言つちやいけないよ、こりや回読会の雑誌ぢやねえか、知れたら巡査に連れて行かれるぞ‥‥」
私は本屋の主人と子供の問答をきいてゐたが、その声には何だかきゝ覚えがあつた。文庫のはいつてゐる小さい本棚の横から覗いてみると、花屋の前で、私に金をくれと言つた愛らしい子供であつた。どうして、あの子供はあんなに幼いくせに金の心配ばかりしてゐるのだらうと、暫く、その子供の様子を見てゐると、子供は途方にくれたやうな顔で、
「ねえ、これを売つて帰らないと困るンだけど、ねえ、買つとくれよ。これで麦を買ふンだよ」
「ふん、麦を買ふ? この雑誌で何升買えると思つてるのかい?」
「一升買へばいゝンだよ」
「一升ねえ」
「あゝ一升二十銭だぜ」
「坊やの家ぢや随分ゼイタクな麦を食つてンだね。安麦でうまいのが一升十六銭だぜ」
本屋の主人は店先きでもぞもぞしてゐる子供相手が面倒になつたのか、銅銭を二ツ出して、
「ほれ、お駄賃だ、この雑誌は屑屋へでも持つてきな」と言つた。
銅貨を貰ふと子供は走つて雨の中を出て行つた。若い主人は「此辺の子供は仕様がない」と言つて、立ちあがると、呆んやりつゝ立つてゐる私へ、馬琴の燕石襍志と云ふのを出して見せてくれた。和綴じの六冊本で、馬琴の覚書きのやうなものであつたが、西鶴のことについての小伝記は、立つて読んでゐる私にも大変面白かつた。
「これ、どの位なの?」
「案外安いンでございますよ。拾円位なら手放してもよろしうございます。虫ひとつ食つてないのですから珍らしうございますよ」
私は、その六冊の本を取つておいて貰ふことにして、本屋の主人の淹れてくれた茶を喫みながら、さつきの子供に、花屋の前で金をせびられた話をした。主人の話では、堀川ひとつ越した埋立の長屋の町では、子供達の間に色々なことを言はせて、道行くひとに金をせびらせてゐるといふことであつた。
私は、わざわざ、帰りにその埋立の町を通つて見た。「下駄の歯入れゐたします」といふ家や、釜や靴を店先きに並べた
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