して行つて祝ひ酒をのみ、醉つぱらつて、電車道に寢込んでゐたのだと云つてゐた。時々、若い巡査は、何べん厄介をかけるのだ、祝ひ酒だの何だのと嘘を云つては、お前は時々往來で寢てゐるではないかと叱つてゐた。群集は笑つた。群集が笑ふと、醉つぱらひの女は手拭を顏からはなして怒つた。伊津子は見世物ではないぞと叫んでゐる醉つぱらひの女の顏がいたいたしくて、すぐそこから離れて驛へ這入つて行つたけれど、明るい驛の中には、スキーを持つた學生たちや奉公袋をぶらさげた出征者の群や、職工や學生や女の群が驛の中にごつたかへしてゐるのを見て、伊津子は養鷄場の鷄舍のなかを眺めてゐるやうな氣持である。その群集の中には、自分によく似た女もゐた。狂人になつて果てる、モオーパッサンの晩年の小説のなかだつたかに、自分と同じ人間と散歩をしたり會話をしたりする作品があつたけれど、伊津子は自分にも、時々そんな錯覺のあることを感じる時がある。切符賣場で、自分によく似た女が切符を賣つてゐた。伊津子が何も云はないのに、その女は伊津子の目的地の切符をくれた。伊津子はしばらく窓口の女の顏をみつめてゐたけれど、伊津子は膏汗の出るやうな苦しいおもひを我慢してそこをはなれて行つたのだ。――伊津子はたつたこの間、十年ぶりで本當の父親に逢ひに行つてきた。父は半分狂人のやうな状態で寢てゐたけれど、伊津子が枕元に坐るなり、汚れた株劵を出して、これをやるから俺を大切にしてくれと云ふのである。伊津子は鼻をつままれたやうな氣持であつた。父はまたこんなことを云つた。お前とお母さんを捨ててから俺は色々な仕事をした。子供は一人も出來なかつたが、金は相當出來た。お前にいくらでもやりたいのだが、お前は今日からでも俺のそばへ來て、俺を大切にしてくれぬかと云ふのである。九州の父の家は立派な家であつた。若い父の細君は藝者をしてゐた女だとかで、父の枕元で煙草ばかりふかしてゐる。伊津子は鹽水港製糖の十株劵を二枚貰つて東京へ戻つて來た。その株劵を賣れば二千圓近くにはなると云ふことである。伊津子はまるで鬼火につかれたやうに、落ちつかない氣持であつた。あの状態では父は近いうちに亡くなるかも知れない。父はどの位の財産をためてゐるのだらう。伊津子は父についての性格はあまり知らないのだ。たゞ、非常に酒をたしなみ、醉ふと狂人のやうになると云ふことだけ母に聞いて知つてゐた。汚れた
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