った。

 学校で、木のてっぺんにもず[#「もず」に傍点]が鳴いていた時のように、よく晴れた朝であった。
 啓吉は、勝手をしている叔母や、朝寝をしている叔父達に黙って、ランドセールを背負ったままほつほつ西への道へ向って歩いた。
 アドバルウンが、月のような色をして昇っている。啓吉は歩きながら、段々心細くなって来たが、それでも引きかえす気持ちはなかった。
 ただ、啓吉の心をかすめてゆくものは、学校の庭の景色や伸一郎が壊してしまった硝子の壺の事や、ガレージの二階の尺八吹きの部屋のありさまなどで、肉親の事と言えば、やっぱり、母だけが泣きたい程、なつかしいのであった。
 空が青くって奇麗だ。
 自分の前へ進んで行く、柱のように長い自分の影を踏んで、啓吉は、学校へ行く時のようにランドセールをゆすぶりながら歩いた。
「おおいッ! あッ、あぶないッ」
 誰かが啓吉の後から突き飛ばした。啓吉はよろよろ二三歩前へつんのめったが、前額部をがあんと道へ打つけたと思うと、後はそのまま、暫く何も覚えがなかった。
 目の上に海のような空所が見える。血の筋が渦巻きのような模様を造って色々に描かれて行った。
「おおい!」
 誰かが呼んでいるようだ。後から鰐《わに》のような黒いものが啓吉の背中を突きとばした。啓吉は、痛くて痛くて耐えられなかった。自分のまわりに、色々な顔の人間達が、手をつないで、
「しっかり、しっかり」
 と、勢いをつけてくれている。
 だが鰐《わに》の口が、ガリガリ音をたてて啓吉の肉のなかに食い込まれると、
「痛いよう!」
 啓吉は、思わずうなり声をあげた。
 自分のうなり声に、思わず瞼をあけると、白い部屋の真ん中に、啓吉は横になっていた。アンデルセンの物語りのなかのように、小さいながら清潔な部屋で、月のような若い看護婦が二人も、啓吉の枕元に立っていた。
 枕元には海のように青い空だけ見える窓が一つあった。
「痛いですか?」
 脣の奇麗な看護婦が訊いた。啓吉は顔を歪《ゆが》めようとしたが、頭には包帯が巻いてあるらしく、顔が歪まなかった。
 手も足も、動かせば、すぐずきんずきんと頭に響いた。看護婦達が、枕元で、窓の下を見て話しあっている。
「運がよかったのねえ、ランドセールが身代りに、まるでおせんべいみたいだったンですって……」
 啓吉は、菓子の銀紙にする、鉛を積んだトラックにはねとばされたのであった。
 啓吉は、うつらうつら薄目のままでまた深い眠りにおちたが、頭の中に、唄のような柔かい風が吹きこんで、蝶々も小鳥も、鰐も、草花も、太陽も、啓吉の夢のなかで、絵具が溶けるように、水のようなものの中にそれが拡がって行った。
[#地から1字上げ](昭和九年十月二十三日―十一月二十一日 東京朝日新聞)



底本:「日本文学全集20 林芙美子集 」河出書房新社
   1966(昭和41)年2月3日発行
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2003年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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