としているのが啓吉によく判った。啓吉は裏口へ回って見た。雨戸が閉ざされている。節穴から覗いてみたが、中は真暗だった。啓吉は庭へ立ったまま途方に暮れてしまったが、自分の影が一寸法師のように垂直に落ちているそばに、何時かの植木鉢が目についた。コツンと足で蹴ると、ごろごろと植木鉢が転んで行って、その跡には雌の蟋蟀がしなびたようになって這っていた。小さい雄は、植木鉢の穴からでも逃げたのであろう。啓吉はしゃがんで、乾物のようになった雌を取り上げると、一本一本ぴくぴくしている脚をむしってみた。
「母アさアん!」
 返事がなかった。
「母アさんてばア……」
 四囲が森としているので、声は自分の体中へ降りかかって来た。
 大きい声で、再び啓吉は、
「母アさん!」
 と呼んでみたが、声が咽喉につかえて、熱いものが目のふちに溢れ出て来た。本当に皆で九州へ行ってしまったのに違いない。啓吉は、ランドセールにしまいこんだ白い手紙の事を想いだすと、いよいよ自分一人捨てられてしまったような悲しさになった。
 小さな風が吹くたび、からからと木の葉が散って来て、誰もいないとなると、自分の家が大変小さく見える。
 啓吉は腹が空いたので、ランドセールから弁当を出して沓《くつ》ぬぎ石に腰を掛けて弁当を開いた。弁当の中には、啓吉の好きな鮭がはいっていたが、珍しい事に茄で玉子が薄く切って入れてあった。
 その玉子を見ると、母親は自分を置いて行く事にきめていたのに違いなかったのだと、また、新しく涙があふれた。
 弁当が終ると、啓吉は井戸端へ回って、ポンプを押しながら、水の出口へ唇をつけてごくごく飲んだ。水を飲んでいると、まだその辺で、「啓吉!」と母親が呼んでくれそうな気がして、母親が始終つかったポンプ押しの握るところを、そっと嗅《か》いでみた。冷い金物の匂いがするきりで母親の匂いはしなかった。啓吉はランドセールを肩にすると、夏の初めにやって来る若布《わかめ》売りの子供のような気がして、何だか物語りの中の少年のように考えられ出して来た。

       二十四

 省線で、啓吉が渋谷の駅へ降りると、改札口を出て行く勘三の姿が目に止まった。勘三は花模様の羽織を着た若い女の連れがあった。
「叔父さん!」
 啓吉は走って行ったが、勘三は女の人と熱心に何か話しているらしく、振り返りもしないでずんずん歩いて行った。啓吉は改
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