しょう、いますよ」
鉛筆の音が止まった。啓吉はどきりとした。
「一寸お母さんが、急用があるそうでなア、周章てて来ていなさるで……」
「そう、じゃそっと行ってらっしゃい」
先生は立ち上った啓吉の肩を押して、扉の出口へ連れて行った。啓吉が出て行くと、先生はまた声を張り上げて、
「領地をゆずる日に、王は娘たちを面前に呼んで……」
と愉しそうに朗読するのであった。
二十二
学校へなんぞ来た事のない母親が、何の用事でわざわざ啓吉を尋ねて来たのか、啓吉は不安で仕方がなかった。
小使い部屋では貞子が、大火鉢にしゃがみ込んであたっていた。
「まア、お使いだてして、本当に済みません」
小使いに世辞をいうと、貞子はすぐ立ちあがって、
「啓ちゃん、一寸」
と、啓吉を、外へ連れ出した。校庭では二組ばかりの体操があった。ポプラの樹の下に来ると、貞子は白い封筒を出して、
「ねえ、お母さまね、暫くの間だけど、九州へ行って来なくちゃならなくなったの。おじさん、御商売が駄目になってしまってねえ、とても、大変なのよ。それで、一寸の間だけれど、この手紙持って、寛子叔母様のところへ行っているの、伸ちゃんのお守りをしてあげて、少しの間だからおとなしく待っていらっしゃい、判った? ええ」
「…………」
「今度は啓ちゃん、連れてゆけないのよ。ねえ……」
「遠いの?」
「ああ遠いの、だけどすぐに帰って来るから……この手紙大事なのよ、いい?」
啓吉はうなずいた。貞子は流石にしょんぼりしている啓吉を見ると、何となく心痛いものを感じたが、
「じゃ、お教室へ行ってらっしゃい。母さんが、いいものを啓ちゃんに送ってあげようね」
「学校、またお休みすンの?」
「さア、叔母様に相談して、あの近くの学校へ行くようにしてもいいでしょ」
「帰れっていわない?」
「帰れっていったかい?」
「ううん、いわないけど……」
「それ御覧、大丈夫だよ、それで勘三叔父さんは、啓ちゃんと仲良しだものねえ」
体操の組では綱引きが始まった。オーエス、オーエスと叫び声があがっている。
貞子が帰って行くと、啓吉は白い封筒を襯衣のポケットへ入れて教室へ帰って来たが、教室ではリヤ王が劇に組まれて、饗庭芳子が、男の声でリヤ王を演じていた。饗庭芳子のリヤ王があんまりうまいので、啓吉が教室へ這入って来ても誰も振りむかなかった。
前へ
次へ
全38ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング