う……」
「渋谷? よし来た。どこだって送ってってやるよ。どうせ昼間は遊びだもの……」
隆山は袂の底を小銭でちゃらちゃら音させながら、啓吉を連れて表通りへ出た。啓吉は、濡れた靴が気持ち悪かったが、四囲が爽かなので、じき忘れて歩いた。二人は電車通りにある一膳めし屋に這入った。まず壁に――朝飯定食八銭――と出ているのが啓吉に読めた。
「定食二人前くンなッ」
隆山が意勢よく呶鳴った。
その定食という奴が若布《わかめ》の味噌汁にうずら豆に新香と飯で、隆山は啓吉の飯を少しへずると、まるで馬のように音をたてて食べた。
「小僧! 美味《びみ》か?」
「…………」
啓吉は只目で合点《うなず》いた。合点きながら、返事をしいられる事が何となく厭だった。だが飯も味噌汁も啓吉には美味《うま》い。うずら豆の甘いのは、長い間甘いものを口にしない啓吉にとって、天国へ登るような美味さであった。
飯屋を出て、すぐ市電へ乗った。隆山は心のうちで尺八でも吹いているのか、こつりこつり首で拍手を取っている。
窓外を見ている啓吉の目の中に段々記憶のある町が走って来る。――渋谷の終点で降りると、隆山は陽向《ひなた》に目をしょぼしょぼさせて、
「じゃ、さよならするぜ。覚えてるかい? 覚えてたら、又遊びにおいでよ……」
といった。啓吉は吃驚したような顔をして隆山を見上げた。「遊びにお出でよ」と親切なことをいってくれたのは、大人でこの男が始めてであったから――。
「ああ」
啓吉は有難うをいいたかったのだが、何となくそれがいえないで走り出した。
花屋がある。コロッケ屋がある。啓吉はその路地へ片足でぴょんぴょん溝板を踏んで這入って行った。突き当りの二階の手摺《てすり》には、伸一郎を抱いて背を向けた勘三が、つくねんとしている。
「只今」
と格子を開けると呆れたような寛子が、
「まア、厭な子だねえ、人にさんざ心配させて……貴方! 啓ちゃん帰って来ましたよッ」
と、ほっとした容子で二階へ呶鳴った。
十一
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田の麦は足穂《たりほ》うなだれ
茨《いばら》には紅き果熟し
小河には木の葉みちたり
いかにおもうわかきおみなよ
[#ここで字下げ終わり]
「ああいかにおもう、野崎澄子よ、か……」
勘三は、拾ったハンドバッグの中から、匂いのいいコンパクトを出して、鼻にあてながら
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