る。
鍵の抜けたピアノのようながらんとした車庫の中へ這入ると、ドスンドスンと跫音《あしおと》が天井へ響く。
「おい、小僧! 待ってな、いいかい」
啓吉は泥まみれな足で、車庫の入口につっ立っていた。酔っぱらいの叔父さんなんかどうでもいいや、俺は発明家になってやるんだから、そう力んでいても、看板の上の五燭の電灯がまるで、一つ目小僧のようで、啓吉の胸の中は鳴るような動悸がしている。
「おい! 小僧ッ、馬穴《ばけつ》をやるから足を洗って [#全角空きはママ]その鉄梯子から上って来な」
ガレージの隅がほのあかるくなった。そこから鉄梯子がさがっていて、小さい馬穴が紐にぶらさがって降りて来た。啓吉は尺八を吹く男の、大きな下駄を持って、水道のそばへ行った。黒い駄犬が啓吉にもつれついて来た。
小僧小僧だなんて、大人になったら大学へ行くんだのに莫迦《ばか》にしてらア、啓吉は、よく母親のところへやって来る「小僧小僧」と呼び捨てにする男の事を思い出した。俺は小僧に見えるのかな。厭だなア、二階へ上ったら名前を言ってやろう……啓吉は、雑巾で足を拭いて、鉄梯子を上って行った。啓吉が二階へ上って行くと、暗い三和土の上でいっとき黒犬が降りて来いと甘えて吠えていた。
尺八教習所といっても、部屋の隅には布団が三四人分も重ねてあり、七輪だの、茶碗だの、古机などが雑居している。
「腹はどうだね?」
「…………」
「ええ? 遠慮はいらないンだよ」
「…………」
「おや! 小僧は何時の間に唖《おし》になったンだ?」
「田崎、啓吉ってね、いうんだよ」
「ああそうか。ま、名乗りはどうでもいいや、これから飯の支度だ。その辺にごろごろしてな」
隆山は新聞紙を丸めて、七輪の中へそれを入れ、手攫《てづか》みで炭をその上に乗せマッチを擦った。机の上には尺八の譜本のようなものが一二冊載っていたが、ハヒハヒチレツロ……などと、啓吉にはさっぱり面白くない。女気がないと見え、四囲は鼠の巣のようで、天井には雨漏りの跡の汚点《しみ》だらけだ。
「おい! 鮭で茶漬はどうだい?」
濡れた新聞包みの中から、鮭の切身が二切出て来た。隆山は指で摘まんで、七輪の炭火の上に、じかにそれをあてて茶碗を畳の上に並べ始めた。――啓吉は叔母達の生活を貧乏だとは思っていたが、まだまだこの方がひどいような気がした。この部屋の主人は教習所の尺八指南だ
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