絵本
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)住んでゐた[#「でゐた」は底本では「ゐでた」]。
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 赤い屋根だつたけれど、小さい家にお婆さんがひとりで住んでゐた[#「でゐた」は底本では「ゐでた」]。
 お婆さんは耳も遠いし、眼もかすんで不自由だつたけれど、何かいつも愉しさうだつた。娘の子のつかふやうな針箱をそばに置いて、涼しい処でゐねむりをするので好きだつた。家ぢゆうあけつぱなしなので白い蝶々がお婆さんの鼻さきにまで飛んで来た。初めは何かい喃と、ぢつと眼をこらしてめやに[#「めやに」に傍点]のたまつたまなじりをぱちぱちさせてゐたが、白い蝶々なのだとおもふと、お婆さんは手を宙へあげてひらひらさせてみたりした。蝶々が二匹になつた。手入れのゆきとゞかない庭には、雑草の中に小さい朝顔が咲いてゐたり、えぞ菊の紫色なのがふはふは風にゆれてゐた。お婆さんは庭へ七輪を出して土鍋をかけた。ひとすくひの米に水を入れて、洗ひもせずにかゆ[#「かゆ」に傍点]をたいたが、かゆがたきあがると、涼しい紅葉の根元に、かゆの鍋を置いて蓋をあけてさました。紅葉の葉ごしに白い雲が流れてゐて、昼近い晴れた朝だつた。かゆがさめるとお婆さんは、かゆを皿に分けて、子供のやうに大きい匙で食べた。
「おばあさんゐるの?」
「‥‥」
「おばあさん、甘いもの持つて来てあげたのよ」
 お婆さんは匙を持つたなりで立つて行つて狭い玄関をあけた。巡査の若いお神さんがおはぎを二つほど皿へ入れて持つて来た。お婆さんは耳をつき出して、
「いま、おひるをたべとつたところでしてな」
 と大きい声で言つた。
「あら、まだ十時頃ですよお婆さん、あなたは食べてばかりゐるんですね」
 若いお神さんは、いたづらさうに笑ひころげて帰つて行つた。お婆さんはすぐおはぎをたべた。美味しくて美味くて仕方がなかつた。縁側へ出て涼しい処に坐つて、お婆さんはおはぎを愉しんで少し食べた。土の上に冷えた、土鍋のふちに、もう蟻が四五匹這ひあがつてゐる。高い樹で蝉が啼き始めた。
 お婆さんは湿つた押入れをあけて、袋の中から書留と判こを出すと、杖をついて町の郵便局へそろそろ歩いて行つた。郵便局の事務員が「おばあさんは一円おつりがありますか」とたづねた。おばあさんはきこえないのでにこにこ笑つて
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