た。
 台所から覗くと淵子ちやんがもう柿を噛りながら唄をうたつてゐる。
「淵子ちやんお父さまは……」
「お酒のんでンの」
「お母さまは」
「おちごと」
「お兄さまは」
「ガツコ」
「お姉さまは」
「お母さまのお手つだひ」
「洽子さんは」
「ガツコ」
「※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]子ちやんとポオちやんは」
「ガツコよ」
「坊やは……」
「あばあばつて云つてンの」
 柿の実はおいしいかつてきくと、わたしリンゴの方が好きよと、はえそろつた下の皓い鼠つ歯で、ギシギシ柿の皮をむき始めた。
 私は子供がほしいと思つた。裏口から外へ出ると、檜の垣根から淵子ちやんのくりくりした御手を引つぱつた。なあに、うゝん一寸いらつしやい。いゝお話よと云ふと、淵子ちやんはしやがむでゐる私の頬へそつと耳を持つて来た。おかしくなつてしまつて私も小さい声であのねえとくちを耳へ持つて行くと、乳臭い子供の匂ひがして、私は感じたこともない胸さはがしさで、どうき[#「どうき」に傍点]が激しく衝つた。
 落葉の上にしやがむで、両手で顔をおほうてゐると、隠れん坊のことなのと、縄を持つた五才の淵子ちやんは、私を置いてどつかへ走つて行つてしまつた。

 今年は最早その家族もサギノミヤとかへ越してしまつた。隣家の柿の実は早や小さな実を鈴なりにつけてゐるが、今日は日照りがなかつたからまづいだらう。[#地から1字上げ]――一九三四――一



底本:「日本の名随筆 別巻84 女心」作品社
   1998(平成10)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「旅だより」改造社
   1934(昭和9)年8月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2008年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング