した。より江はハモウニカを灯《ひ》に透かしてみました。沢山窓があるので、小さいより江は、すぐ汽車の事を考え出して、ハモウニカを算盤《そろばん》の上へ置いて「汽車ごっこ」とひとりで遊びました。より江が板の間の方までハモウニカの汽車を走らせていると、戸外で、
「今晩、今晩、今晩!」
 という声がします。
 兄《にい》さんの健ちゃんはびっくりした顔をして「誰《だれ》かね。」と大きい声で返事をしました。すると、表の硝子戸を開《あ》けて、見たこともない一人の男のひとが這入《はい》って来て、
「腹が痛いのだが薬を売ってくれないかね。」
 といいました。
 健ちゃんは、煤《すす》けた天井《てんじょう》から薬袋《くすりぶくろ》を降して見知らぬ男のひとのところへ持ってゆきました。男のひとは大変疲れていると見えて、土間へ這入って来ると、すぐ板の間へ腰をかけて「ああ」と深いためいきをしました。
「誰もいないのかい?」
 とその男は健ちゃんに訊《き》きました。
 健ちゃんは泣《な》きそうな顔をして、「うん」と云いました。雨が強くなったのでしょう硝子戸がびりびりふるえています。その男のひとは健ちゃんから水を一杯もらって銭《ぜに》を置いて帰りました。帰りしなに乗合い自動車はもうないだろうかとききました。
「九時まであります。」
 と健ちゃんが応《こた》えると、その男のひとは硝子戸を丁寧に閉めて雨の中へ出て行きました。より江は、ざァと云《い》う雨の音をきくと、いまのおじさんは濡《ぬ》れて可愛《かあい》そうだとおもい、
「傘《かさ》を借してあげればいいに……」
 と兄さんにいいました。兄さんは壁にあった傘を取って、硝子戸をあけ「おうい」といまの男のひとを呼びました。男のひとは二三十歩行っていましたが、健ちゃんが雨の中を走って傘を持って来てくれると、びっくりするほど健ちゃんの肩を叩《たた》いて男のひとはよろこびました。――より江たちのお母さんは九時|頃《ごろ》帰って来ました。
 健ちゃんたちが、さっきの男のひとの話をすると、お母さんは心配そうに「ほう」といっていました。濡れた自転車を土間へ入れて健ちゃんが硝子戸に鍵《かぎ》をかけようとすると、さっきの蛙がまだつくばっています。
「よりちゃん、まだ蛙がいるよ。」
 と、健ちゃんが蛙をつまみあげると、薄青い色をした蛙は、くの字になった両脚《りょうあし》を
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