河沙魚
林芙美子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)曇《くも》って

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)色|濃《こ》い

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)なりふり[#「なりふり」に傍点]
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 空は暗く曇《くも》って、囂々《ごうごう》と風が吹《ふ》いていた。水の上には菱波《ひしなみ》が立っていた。いつもは、靄《もや》の立ちこめているような葦《あし》の繁《しげ》みも、からりと乾《かわ》いて風に吹き荒《あ》れていた。ほんの少し、堤《つつみ》の上が明るんでいるなかで、茄子色《なすいろ》の水の風だけは冷たかった。千穂子《ちほこ》は釜《かま》の下を焚《た》きつけて、遅《おそ》い与平《よへい》を迎《むか》えかたがた、河辺まで行ってみた。――どんなに考えたところで解決もつきそうにはなかったけれども、それかと云《い》って、子供を抱《かか》えて死ぬには、世間に対してぶざまであったし、自分一人で死ぬのは安いことではあったけれども、まだ籍《せき》もなく産院に放っておかれている子供が、不憫《ふびん》でもあった。
 吹く風は荒れ狂《くる》い、息が塞《ふさが》りそうであった。菱波立っている水の上には、大きい星が出ていた。河へ降りてゆく凸凹《でこぼこ》の石道には、両側の雑草が叩《たた》きつけられている。岸辺へ出ると、いつもは濡《ぬ》れてぬるぬるしている板橋も乾いて、ぴよぴよと風に軋《きし》んでいた。
 窓ガラスのように、堤ぎわの空あかりが、茜色《あかねいろ》に棚引《たなび》き光っていた。小さい板橋を渡《わた》って、昏《くら》い水の上を透《す》かしてみると、与平が水の中に胸にまでつかって向うをむいていた。
「おじいちゃん!」
 風で声がとどかないのか、渦《うず》を巻いているような水のなかで、与平は黙然《もくねん》と向うを向いたままでいる。口もとに手をやって乗り出すような恰好《かっこう》で千穂子がもう一度、大きい声で呼んだ。ずうんと水に響《ひび》くような声で、おおうと、与平がゆっくりこっちを振《ふ》り返った。
「もうご飯だよッ」
「うん……」
「どうしたンだね、水の中へはいってさ。冷えちまうじゃないかね……」
 与平はさからう水を押《お》しわけるようにして、左右に大きく躯《からだ》をゆすぶりながら、水ぎわに歩いて来た。棚引いていた茜色の光りは沈《しず》み、与平の顔がただ、黒い獣《けもの》のように見える。なまぐさい藻《も》の匂《にお》いがする。近間で水鳥が鳴いている。与平が水のなかに這入《はい》りこんでいたのが、千穂子には何となく不安な気持ちだった。
「風邪《かぜ》をひくだアよ。おじいちゃん。無茶なことしないでね……」
「網《あみ》を逃《に》がしてしまったで、探しとったのさ」
「ふン、でも、まだ寒いのに、無理するでないよ……」
「うん、――まつは起きてるのかえ?」
「起きてなさる」
「ふうん……えらい風だぞ、夜は風になるな」
 ずぶ濡れになったまま、与平はがっしりした躯《からだ》つきで千穂子の前を歩いて行く。腿《もも》のあたりに、濡れたずぼんがからみついていた。裏口の生垣《いけがき》に咲《さ》いているこでまりの白い花の泡《あわ》が、洗濯物《せんたくもの》のように、風に吹かれていた。千穂子は走って、台所へ行き、釜の下をのぞいた。火が燃えきっていた。あわてて松葉《まつば》と薪《まき》をくべると、ひどい煙《けむり》の中から炎《ほのお》がまいたって、土間の自転車の金具が炎で赤く光った。
 千穂子は納戸《なんど》から、与平のシャツと着物を取って来た。濡れたものをすっかり土間へぬぎすてて、裸《はだか》で釜の前に来た与平はまるで若い男のような躯つきである。千穂子は炎に反射している与平の裸を見て、誰《だれ》にともなく恥《は》ずかしい思いだった。
「おじいちゃん、風邪ひくで……」
「うん、気持ちがいいンだよ」
 与平は乾いた手拭《てぬぐい》で、胸から臍《へそ》へかけてゆっくりこすった。千穂子がかたづく以前から飼《か》っている白猫《しろねこ》が、のっそりと与平の足もとにたたずんでいる。小さい炉《ろ》では、鍋《なべ》から汁《しる》が煮《に》えこぼれていた。与平はシャツを着て、着物を肩《かた》に羽織ると、炉端《ろばた》に上って安坐《あぐら》を組んで煙草《たばこ》を吸った。人が変ったように千穂子が今朝《けさ》戻《もど》って来てからと云うもの、むっつりしている。――今日《きょう》は戻って来るか、明日は戻って来るかと隆吉《りゅうきち》を待つ思いでいながら、いつの間にか半年はたったのだが、隣町《となりまち》の安造《やすぞう》も四日ほど前に戻って来たと云う話を聞いた。すべては与平と相談の上で、何もかも打ちあけて隆吉に許
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