しを乞《こ》うより道はないと、二人の話はきまっているのではあったけれども、与平が何となく重苦しくなっているのを見ると、千穂子はいてもたってもいられない、腫《は》れものにさわるような気持ちだった。千穂子は今は一日が長くて、住み辛《づら》かった。姑《しゅうとめ》の膳《ぜん》をつくって奥《おく》へ持って行くと、姑のまつは薄目《うすめ》を明けたまま眠《ねむ》っていた。枕《まくら》もとへ膳を置き、「おかあさん、ご飯だよ」と呼んでみたけれど、すやすや眠っている。千穂子はかえってほっとして、そこへ膳を置き、炉端へ戻って来た。
「よく眠ってる……」
「うん、そうか、気分がいいんだろ……」
「おじいちゃん、そこに酒ついてますよ」
炉の隅《すみ》の煉瓦《れんが》の上に、酒のはいった小さい土瓶《どびん》が置いてある。与平は、汚《よご》れたコップを取って波々と濁酒《どぶろく》をついで飲んだ。千穂子は油菜《あぶらな》のおひたしと、汁を大椀《おおわん》に盛《も》ってやりながら、さっき、水の中へはいっていた与平のこころもちを考えていた。死ぬ気持ちであんな事をしていたのではないかと思えた。そんな風に考えて来ると涙《なみだ》が溢《あふ》れて来るのである。ざあと雨のような風の音がしている。もう、この風で、最後の桜《さくら》の花も散ってしまうであろう。千穂子は猫にも汁飯を少しよそって、あがりっぱなに丼《どんぶり》を置いてやった。
「伊藤《いとう》とか云う人の話はまだきまらねえのか……」
小さい声で、与平がたずねた。千穂子は不意だったので、吃驚《びっくり》したように与平の顔を見た。いままでも、小柄《こがら》で痩《や》せていた千穂子ではあったけれども、子供を産んでしまうと、なおさら小さくなったようで、与平は始めて、薄暗い燈火の下で千穂子の方を見た。伊藤と云うのは、千葉の者で、千穂子の子供を貰《もら》ってもいいと云ってくれる人であったが、産婆《さんば》の話によると、もう少し、器量のいい赤《あか》ん坊《ぼう》を貰いたいと云う事で、話が沙汰《さた》やみのようになっているのであった。千穂子の赤ん坊は月足らずで生れたせいか、小さい上にまるで、猿《さる》のような顔をしていて、赤黒い肌《はだ》の色が、普通《ふつう》の赤ん坊とは違《ちが》っていた。赤ん坊は生れるとすぐ蟹糞《かにくそ》をするのだけれど、まるでその蟹糞色の
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