みみずのように動いているのだ。
風が弱まり、トタン屋根を打つ雨の音がした。なまあたたかい晩春の夜風が、どこからともなく吹き込む。麦ばかりのような黒い飯をよそって、千穂子は濁酒を飲んでいる与平のそばで、ぼそぼそと食べはじめた。
風のむきで河の音がきこえる。与平は、空《から》になったコップを膳の上に置いて、ぽつねんと、丼をなめている猫を見ていた。
「おじいちゃん、私、ご飯を食べたからかえりますよ」
「うん……」
「変な気をおこさないで下《くだ》さいよ。おじいちゃんがそんな気を起すと、私だって、じっとしてはいられないもの……」
与平は眼をしょぼしょぼさせていた。薄暗い電気の光りをねらって、かげろうのような長い脚《あし》の虫が飛びまわっている。――与平が五十七、千穂子が三十三であったが、お互《たが》いは、まるで、無心な子供に近い運命しか感じてはいないのだろう……。二人とも、ただ、隆吉だけを恐ろしいと思うだけである。そのくせ、隆吉に対する二人の愛情は信仰《しんこう》に近いほど清らかなものであった。
まつが、起きたような気配《けはい》だったので、千穂子は箸《はし》を置いて奥の間へ行った。暗い電気の下で、ぶるぶる震《ふる》える手つきで、飯をぽろぽろこぼしながらまつは食事をしていた。
「おかあさん、起きたの知らなかったンだよ」
甲斐甲斐《かいがい》しく膳を引きよせて、千穂子は姑の口へ子供へするように飯を食べさせてやった。――隆吉は、千穂子より一つ下で世間で云う姉|女房《にょうぼう》であったが、千穂子は小柄なせいか、年よりは若く見えた。実科女学校を出ると、京成《けいせい》電車の柴又《しばまた》の駅で二年ばかり切符《きっぷ》売りをしたりした事もある。隆吉にかたづく二十五の年まで浮いた事もなく、年をとっても、てんから子供のようななりふり[#「なりふり」に傍点]でいた。
隆吉との夫婦仲《ふうふなか》は良かった。隆吉は京成電車の車掌《しゃしょう》をしていたが、それも二三年位のもので、あとはずっと、与平に手伝って、百姓をしたり、土地売買のブロオカアのような事をして暮していた。中学を中途でやめた、気性の荒い男だったが、さっぱりした人好きのされる性質で、千穂子よりは二つ三つ老《ふ》けて見えた。背の高い、ひょろひょろしているところが、弱そうに見えたけれど、芯《しん》は丈夫《じょうぶ》で、
前へ
次へ
全14ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング