キなンだよ。ぬけがら[#「ぬけがら」に傍点]のやうな女房も困る‥‥。だが、別れはしないよ。別れても別れなくつても、この波は何とかして靜まつてゆくだらう‥‥。だが、今日から、お前はお前で勝手にふるまつてくれ、俺は俺で勝手にする‥‥」


 堂助が、俺は俺で勝手にすると云つてから丁度二年經つた。堂助が云つた通り、たか子達は夫婦らしい生活をしたこともなく、夏の旅も冬の旅も一度も一緒ではなかつた。
 たか子は、良人から離れてしまふと、段々、名流婦人になつて行つた。結城の家へ來る手紙も大半はたか子のものであり、今日は何の會、明日は何の座談會と、太つたたか子夫人の出ない會はない位になつた。月々の婦人雜誌を見ると、かならずどの頁かにたか子夫人の寫眞が載つてゐた。

 輕井澤の別莊には毎年俊助と孝助が行くやうになり、輕井澤には堂助もたか子もふつと行かなかつた。――時々、仲のいい徹男夫婦のことを人づてに聞くと、たか子は人がかはつたやうに、若夫婦の惡口を云つたりした。
「あそこのお宅は此頃火の車で大變なのよ。久賀さんのお家だつて小華族だし、佐々さんのお家だつて、ああして山かんで博士になつた、なりあがり[#「なりあがり」に傍点]者みたいなお家ですもの‥‥どつちもお金があるだらうと探ぐりあひで結婚したのよ」
 などと、えげつない事も云つた。そんなことを云つたあとは穴の中へ墜ちたやうに淋しかつたが、
(あのひと、あんな意地惡してるンだもの、仕方がないわ‥‥)
 と自分を可哀想におもつたりして自分をかばふ氣持だつた。
 鏡の前に坐つても、自分の顏が妙にとげとげしてゐる。いつかも、高等學校にゐる俊助が冬の休みに歸つて來て、
「ねえ、お母さんは、僕にどんな風な結婚をさせたいと思ひます?」
 と訊いた。
 何時も、ママ、パパで育つた子供が、何時の間にか、自分を「お母さん」と呼ぶやうになつてゐる。
「ママ? そりやア、見合結婚だわ。それを、ママ、望んで、よ‥‥」
「やつぱりさうですかねえ‥‥」
「何? あなた好きな方でもあるの?」
「好きな娘の一人や二人はありますよ。だけと、見合結婚も一寸困るなア‥‥」
「パパ、何て云つて?」
「女なんか、どんなのでもいいから、田舍の素朴さうなのを選んで來いつて云ひましたよ‥‥」
「まア、厭なパパ!」
「だつて、お父さんだつて、お母さんのやうな奧さんは一寸困るでせう‥‥」
「どうして?」
「始終、うちをあけて、お父さんは女中のつくつたものばかり食べてるぢやありませんか‥‥」
「うちをあけてるつて、そりやア何かと用事があるのよ、私がこんなにうちをあけなきやならないのも、パパに一半の責任があるわ‥‥」
「何か知らないが、僕は女の出歩くの厭だな。わけのわからん層のひくい女達は、母さん達をうらやましがるか知れないけど、僕は厭だな‥‥お母さんの寫眞が出てると、寒々しいものを感じますよ‥‥」
 たか子は、瞠つてゐた眼をあけてゐられなかつた。涙がすぐ溢れて來た。涙弱くなつてゐる母親を見ると、俊助は吃驚して半巾を母親の手へ握らした。
「あんたまで、そんなことを云つて、このママをふんづけてしまふのね。女つて云ふものは良人や子供の臺石にならなきやならないの?」
 子供の半巾を脣へ持つて行くと、不圖、昔、徹男とドライヴした時の革のやうな匂ひがする。
(おお厭だ。この息子まで男臭くなつてゐる‥‥)
 たか子は身震ひして半巾を俊助へ投げかへした。
「まア、あなた、このハンカチ何日洗はないのよ?」
「母さん洗つてくれたらいいぢやありませんか‥‥」
「まア、あんなこと云つて、厭なひとねえ」


 冬の休みも濟んで、また夏が來て、秋になつた。たか子の外出は依然としてかはらない。今日も、遲くなつて歸つて來たのだ。
「星を眺めるつて、久しぶりだわ‥‥」
 久しぶりなのは、夫婦がかうして向きあふことも久しぶりなのだつた。
「ねえ、あんたの怒りんぼにも私負けてしまふわ。私、いま、何もないのですもの‥‥もう憤らないで頂戴‥‥」
「憤つてやしないよ。だが俺の方がもう、我慢が出來なくなつたよ。俺はお前と別居をしたくなつたンだがねえ、どうだらう?」
「別居つて、別れきりなの?」
「ああ、但し籍の方なら當分置いておいていいよ‥‥俊助も孝助も分別がついて來てゐるのだし、俺達の不思議な氣持ちも軈て判るだらうとおもつてゐる。俺は、こんな空疎な生活なンて大きらひだツ」
 たか子は默つてゐた。
 堂助は、たか子と別れて、田舍者の女と結婚して、勉強したいと云つた。まだ相手はみつかつてはゐないが、不幸な女があつたら、結婚するかも知れない。籍も貰ふかも知れない、だがそれはもしかの事だと云ふ。
 いまは孤獨になつて勉強したいきりだとも云ふのであつた。
「あなたは、私が、自殺でもしなければ許しては
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