ましてゐるやうに思へた。堂助は臆せずに、會場の入口に立つてゐる花聟花嫁の前へ進んで行つて、
「いや、おめでたう‥‥」
 と云つた。
 堂助の、後にゐるたか子も小さい聲で、
「おめでたう厶います」
 と云つた。
 堂助は、花聟の表情も見ずに金屏風の前をずんずん會場の中へ這入つて行つたが、たか子は足が釘づけになつたやうで、歩くことが出來なかつた。(やつぱり私は愛してゐたのだ。必死になつて愛してゐたのだ‥‥)たか子は心のうちにさうおもふと、涙が溢れて來た。その涙を見せまいとして、たか子は辛うじて、花聟たちの前からトイレツトの方へ躯を運んでゆき、森閑とした化粧室の鏡の前に立ちはだかつた。立つてゐると、まるで子供のやうに聲をたてて泣けて來る。
 會場の方では餘興が始まつたのか、波のやうな拍手の音がきこえて來た。
(あのひとの前へ立つて、おめでたうと云つたら、あのひとは、小さい聲で、ありがたう厶いますと云つた‥‥)
 あの脣、あの眼、あの胸で、二人だけの愉しい思ひ出があるのを、あのひとは忘れはしないだらう‥‥。年齡の違ひが何だつて云ふのだ‥‥。鏡の前に立つて、まるで良人か子供を失つた女のやうに、黒い紋服のたか子は、ハンカチを頬にあててさめざめと泣くのであつた。


 軈て、宴が始まり、各※[#二の字点、1−2−22]名前の書いてある席に著いた。偶然なのか、たか子の席は花聟花嫁が筋向うに見える、メン・テーブルから二側目の席だつた。ボーイが白葡萄酒をついでまはつた。たか子はボーイの白い服のかげから、そつと、徹男の方へ眼を向けたが、徹男もたか子の席の方へ何氣なく眼を向けてゐた。宙で二人の眼が逢つたが、徹男は微笑に似た表情で、そつと、たか子の眼をはぐらかして行つた。
 たか子は手先きが莫迦々々しいほど震へてフオークを持つことも出來なかつた。
(いつたい誰の結婚式なのだらう‥‥私が立ちあがつて正直なことを云へば、この結婚式はくものこを散すやうにみぢん[#「みぢん」に傍点]にする事も出來るのだわ‥‥)
 たか子は震へながらそんな事を考へてゐた。座にゐるのが辛らかつた。祝ひの言葉も半ばすすみ、酒で、宴がなごやかになつてゆくにつれ、たか子は叫び出したいやうな妬ましさで心が痛んだ。
「氣分が惡いのぢやないか、おい、中座したらどうだ?」
 堂助が、震へてゐるたか子の右腕を取つて立ちあがつた。堂助に頼つて歩きながら、たか子はをかしい程、心《しん》のぬけてゐる自分を感じた。
 ボーイが右往左往してゐるので、二人が立つて行つても少しも目立たなかつた。控室の大きな長椅子に腰を降ろして吻つとしてゐると、花聟と花嫁が家族の人達に圍まれてぞろぞろ會場を出て來た。新婚旅行へ出る仕度でもするのだらう、花嫁につきそつて、美容師が三人、花嫁の袂をささげて歩いて來た。登美子の母親の久賀夫人も、佐々博士の小さい奧さんも何かしやべりながら笑つて歩いて來てゐる。
 堂助は急に立ちあがると、
「おい、歸らう‥‥」
 と云つた。
 自動車へ乘ると、こらへ性もなくたか子は顏に半巾をあてた。齒をくひしめても涙がすぐあふれて來る。堂助は袂から煙草を出して、味があるのかないのか、走る窓外を見ながら呆んやり吸つてゐた。さうして、やや暫くしておもひ出したやうに、
「君があの男を愛してゐた氣持ちは、まるで生娘みたいなンだねえ‥‥そんなだとはおもはなかつたよ‥‥」
 これからの一生を、こんな心でゐる妻とどうして暮していいのか一寸判らなかつた。たまらないなと思つた。
「そんなに泣くほど切なかつたのかねえ‥‥」
「‥‥‥‥」
「いい年をして‥‥」
 いい年をしてと云はれると、たか子はそれが弱點なだけに、無性に腹が立つて來た。あの若い二人は愉し氣にどこへ行くのだらう。窓外の暗い景色の中には、只街の灯しか見えない、自分のそばを走つてゐる自動車が、どれもこれも花聟と花嫁の自動車に見える。
 勝手だけれども、こんな時にたよれるのは良人でしかないと云ふことが、たか子にはまた寂しかつた。
 家へ歸ると、書齋へ引つこんで森としてゐる良人の前に坐つて、たか子は「ごめんなさい」と云つた。
(ごめんなさいと云ふ言葉はあのひとも云つたが‥‥)
「ごめんなさい‥‥」
「君は正直に、自分の氣持ちをひれき[#「ひれき」に傍点]したまでだよ。あやまられても俺は知らんよ」
 知らんよと云はれても一言もなかつた。良人とも別れになるのではないかと思ふと、たか子は、徹男に流した涙とはまた別な涙がこぼれた。――十八の時に結婚して、二十年間何の波風もなく暮らして來たことを考へると、徹男との事は、何の隙間だつたのだらうと不思議におもへて來る。
「かんじんの男が結婚してしまつては何もならんし‥‥俺も、もう、お前と一緒にゐるのは厭だ。俺は朴念仁だから、ケツペ
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