つて、たか子は雨に濡れながら、徹男のビイラへ行つた。自炊をしてゐるので、石油コンロがサロンの眞中に置いてあり、チーズや煙草の鑵が板の床に轉がつてゐる。
たか子は、散らかつてゐる部屋へ徹男の後から負けない氣持ちで這入つて行つた。
「困る‥‥」
徹男が、立ちどまつて「困る」と云つた。たか子はスクウリンの上が消えてしまつたやうな淋しさで、窓邊に立つてゐた。十年近くも年の違ふこの青年に噴きあげるやうな戀情を寄せてゐる自分を、痛々しく考へてみるのだつた。
何かの惡い隙間なのだとおもつてみても、たか子はいまさらひつこみのつかない氣持ちだつた。徹男は、徹男で、良人を持ち何人も子供を産んでも、少女の氣持ちと少しもかはらないたか子夫人に、何となくひかされるものを感じた。眼が黒くつぶらで、皮膚が白くて、太い眉が熱情的で、脣は南國の花のやうに厚い肉をしてゐるたか子。
「どうして、急に、そんなによそよそしくなさるの?」
たか子が、そつと徹男のそばへ寄つて來た。埃くさい、暗い部屋の中に、二人は暫く對立して立つてゐたが、たか子は、少女のやうに徹男の胸に飛びついて行くと、まるで蝶々が狂ふやうに、髮の毛を徹男の胸へ押しつけてゐた。氣位の高い、肉の厚い女が、野性になつて來るのを見て徹男は、いたはるやうにたか子を長椅子へ連れて行くと、雨で冷くなつた自分の頬をたか子の膏の浮いた額へぢつと押しあてるのであつた。
その日から、二人は人目をしのぶ仲になつてゐた。東京へ歸つてからも、たか子は口實をつくつては徹男に逢ひつづけてゐた。
初冬になつて、堂助が朝鮮へ寫生旅行に出かけて行くと、たか子は徹男を誘ひ出して伊豆めぐりなどをしてゐたが、何時かたか子と徹男の關係は徹男の兄の佐々博士に知られてしまつてゐた。
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――ごめんなさい。もう、これだけの思ひ出として、二人のことは溟心共に消えてしまひたいと思ひます。霧散さしてしまつて下さい。軈て何かの折に、僕の氣持ちをお應へする折もあるでせう。お躯をお大切に祈りあげます。
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そんな、呆んやりした手紙が徹男から來たきり、たか子は徹男にふつつり逢ふ機會がなかつた。泣いては怒り、怒つては考へ深く想つてみたりしたが、溟心共に消えてしまつたと云ふことは、たか子の年齡にとつて、一番胸に浸みる言葉であつた。
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