近くには、四五軒も赤屋根の小さい別莊が何時か建つやうになつた。西側の白樺林にかこまれては佐々博士の和風莊と名づけた別莊がある。ここには子澤山の佐々一家が、二三年來やつて來るのであつたが、その夏は、佐々博士の一家は鎌倉の方へ避暑に行つたとかで、佐々博士の末弟だと云ふ、徹男と云ふ二十七八の青年がダツトサンを持つて一人でぽつんと遊びに來てゐた。
この青年と一番さきに話すやうになつたのはたか子である。たか子は徹男を知ると、すぐ徹男を良人に紹介して、
「ねえ‥‥パパ、うちの俊助が學校を出たら丁度あんなになるのねえ‥‥外務省に務めてらつしやるンですつて」
と、徹男の無口さを長男の無口さにくらべて、こんなことを云つたりしてゐた。
夏もそろそろ終り頃になつて、堂助は思ひたつたやうに二三日山の寫生に行つて來ると云つて、戸隱山か黒姫山かに登つて來るのだと、飛びたつやうにして長野へ發つてしまつた。後へ殘されたたか子は、朝から徹男を呼びに行つたり、夜更けまで、徹男の部屋に遊んでゐたりした。――霖雨のやうな雨の降る或日だつた。たか子は東京から菓子を送つて來たと云つて、徹男を自分の部屋へ呼んだ。
「ねえ、あんまり寒いから爐を焚いてみたのよ いいでせう?」
徹男は茶のスウヱータを着て、大きな野櫻のパイプを口にくはへてゐる。たか子は安樂椅子をすすめると、
「ああ、主人がゐない氣持ちなンて、桎梏から離れたやうな氣がするわよ‥‥」
と、蓮葉なことも云つた。
「だつて、隨分仲のいい御夫婦で、何時も奧さんは愉しさうぢやありませんか‥‥」
「さう見えるのよ。ちつとも愉しくなンかないのよ。早くから子供を産んで年をとつたンですもの、つまらないわ‥‥」
色んな草木の葉を鳴らして、細かな雨が降りつづいた。さうして、憂々と屈したやうな陰氣な、雨のくせに遠くでいなづまが光つてゐる。
「まるで夏の初めみたいぢやありませんか‥‥」
「さうですね‥‥」
爐の火ははぜて、ぱちぱち樹皮が燃えあがる。山で傭つた小さい女中が、熱い茶を淹れて持つて來た。
「中々、可愛い娘ですね‥‥」
「あああの娘ですか、毎年傭ふのが嫁に行つたので、その妹が來てるンですけど、素直ですよ」
「いくつですか?」
「十九ですつて、あんなのがお好き?」
「何も知らない、あんなのがいいぢやありませんか‥‥」
「ふふん、徹男さんも隅に置けないひとねえ
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