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月にうき、雲はなにかぜ
おもふにまかせぬ世なりけり。
ちぎりしたことは夢に似て
はやくも、わかれとなりにけり。
[#ここで字下げ終わり]
破れ団扇のうらの、達筆な落書。
「君ぢやアないのだらう?」
「なに?」
「この文句さ、失恋だな、どう読んでも‥‥」
「さる、偉いおかたのものさ」
「さる、偉いおかたのものか‥‥」
鍋のものをさらへて、食べたあと、湯を足して、配給の粉をまるめたすゐとん、三人の有機体は海鼠のやうに平和になつた。
煙草は取つておきの、昨日の、大学煙草が三本、一本、一円三十銭だと思へば、仇やおろそかには吸へない。――国宗も珍重して吸ひながら、すぐ七癖の一癖がまた始つた。
「闇で煙草をどんどん売つてゐるくせに、配給がないといふのは、政府の最もずるいやりかただよ。――政府のやつてゐることで、科学性なンて何一つありやアしないぢやないか、神まうでと同じで、御利益の匂はせ主義だし、民衆が興奮すると、すぐ、殺虫剤みたいなものをふりかけるンだからねえ。――何日も主食物を配給しないでおいてさ、街に出てみろ、馬鈴薯なンか、山のやうに売つてるぜ‥‥」
人類は、自然のなかに愛されてゐるはずなのに、まづ、敗戦のあとの庶民には何の余沢もない。割のいゝものが、割のいゝ五十年の暮しをしてゐるだけのことだと、国宗はさかんに蔭弁慶の迷論を飛ばしてゐる。
だが、闇の煙草はなかなかうまい。
五郎は、錻力や、木片をあつめてきて、こつこつと、電気の麺麭焼き箱をつくつてゐる。
「うまく出来るかい」
専造が破れ団扇をつかひながら見物といつた様子。
「これで、コードを少し買つてくれば出来るよ」
「よーし、買つてやらう。しかしふくらし粉は高値だなア」
「姉さんに貰つて来るよ」
「夏川つて家も、姉さんの話によるとけちんぼだつて云つてたよ」
「だつて、ふくらし粉位はあるだらう」
「あゝ、猛烈に甘い奴をたべたいなア。砂糖といふものの存在はどうなつたのかねえ。砂糖といふ奴は‥‥」
国宗が、出窓に腰をかけて、急に甘いものを思ひ出したやうだ。五郎は、硝子瓶にはいつた砂糖の白さを思つた。坂田のおばあさんの家で、大切にしてゐる白砂糖を峰子と二人で盗んでなめた事があつた。舌の上にじゆんと広がつてゆく甘さが忘れられない。ふつくりした柔い薄団にくるまつたやうな、ぽつてりした砂糖の味‥‥。
少しばかり紙に包んでおいて、峰子と二人で寝床でも嘗めた。灯火の下でみると、きらきらした光が硝子の屑のやうでもある。
「何しても、働く場所がないと云ふ事は憂欝だねえ。本郷の方も、当分駄目らしいんで弱つてゐる」[#「」」は底本では「。」]
専造が如何にも弱つてゐる風に髪の毛をむしつた。
「まさか、路ばたでリユツクを下ろして、大学生が店を出すつてことも出来なからうしねえ」
「うん」
「いつそ、どうだい?学校の方をやめてしまつて、本格的に就職運動をしてみたら‥‥」
「生きるといふ事は、まづ難物だなア」
「死ねといつたつて、すぐ死ねもしないしさ‥‥」
「全くだ。僕達のやうな学生のことなンか、世の中は少しも考へてくれやしない。問題が多すぎると云へば多すぎるンだらうが、もつと何とかねえ、――どうしても、五百円はなくちやア勉強は出来ない」
「うん」
「君は、いつたい、サラリーはどの位貰つてるの?」
「まづ、昔の課長級かな」
「ぢやア、大した事もないな」
「まづそんなもンだ、――食にとぼしい生活といふものは、第一に張りがなくなるし、人生に夢がなくなるね、自分が、若いンだか、年寄りなンだか、さつぱり判らなくなつてしまつたよ。有耶無耶にして十年、このまゝでいつたら乞食の生活と大した変りはないね。生きながら冥府に旅をしてゐるも同じの生活だよ。だから呑気は呑気だ‥‥。人間、栄達、立身出世の野心がなければ、なかなか安気なものだ。毎日鞄をさげて出社して、夕べは茄子やトマトを買つて帰る。本は高いから買はないで、まア、朝の新聞の広告を、たンねんに、読んでゆくうちには眠くなつちまふ。眼が覚めるとまたまた鞄をさげて出社‥‥何のことはない、己れに逆ふものなしさ、氷屋のすだれの如き、さらさらした人生図だよ‥‥」
丁度焼野を越した向うを省線が走つてゐる。
眼の下の狭い空地には唐もろこしの籔。四畳半の二階、それでもこよなき天国だ。赤ちやけて芯のはみ出た畳だけれど、間代にはべらぼうな値段がついてゐる。破れ畳に寝るだけで、本を売りつくして、そのうち、本箱もこの畳に吸収されようとしてゐる一日一日、崩れてゆく部屋のかつかうが専造には妙で口惜しいのだ。貧弱な運命といふものが、眼にはみえないけれども、軒の風鈴のやうに風のまにまに涼やかに鳴つてゐる。
これで、五郎でもゐなければ、底なしに荒さんで行くのかも知れない
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