町をいつたい、渺茫たる広野原の遠見。そのなかを、沈んだ色のビルデイングや、煙の出ない煙筒の林立。
(何時もこの物干へ来ると、定子は何か歌ひたくなる。リンゴの唄や、雨のブルース、それから歌つてはいけない軍歌、峰子の歌ふ唱歌。)
 あわてて階下へ降りると、薄暗い台所はおそろしくガス臭い。すぐ火をつけて薬罐をかける。茶を淹れて、をばさんの寝てゐる枕もとへ持つてゆくと、
「八時半に薪の配給があるの、わかつているわね。一束、七円五十銭よ」
「えゝ、わかつてゐます」
「今朝はすゐとんでもつくるかね?」
「えゝさうしませう」
「ガスが出るやうだつたら、昼のパンもふかしておくといいわね」
「えゝ、わかつてゐます」
 ふくらし粉をつかへば、拾円で三日しかないといふので、ふくらし粉なしの、餅のやうに固いパン、これが、毎日のこと。――親仁さんの良吉は、二日ばかりの商用で、福島へ行つて留守である。
 六時になると、二階で雨戸を開く音がして、政子が起きる。
「昨夜、わたし、とても、こはい夢みたのよ。牛のおつぱいが、おてんたうさまから、ベロンとぶるさがつてるの‥‥。脚なンてない、とても大きい牛なのよ」
 梯子段の途中から、政子がこんなことを云ひながら降りて来た。よく眠つたせゐか、眼が澄んでゐる。内心、政子も、自分の眼の美しさは、充分自信があるのであらう。
 朝の食卓についたのが八時。四囲がのぼせたやうに暑くなりかけてゐる。
「いつたい、世間のひと、何を食べてるのかしら‥‥」
 定子が、ふつと、こんなことをいつた。
「力の及ぶ範囲で、やつてるンでせう‥‥」
 政子は、すゐとんがきらひなので、電気コンロに、フライパンをかけて、粉を焼いてゐる。
「定子ちやんは、昔のことで、何が一等なつかしい?」
「昔のこと、あら、そりやア、母さんのこと、どうして死ンだンだらうて、いつもさう思ふわ‥‥」
「いゝえ、お母さんのことぢやないの。住んでたところとか、食べものとかつていふのよ。たとへばさうね。新富の寿司だとか、下谷のポンチ軒のカツレツとか‥‥」
「いやだねえ、また、朝から食べものの話だよ。――早く、食事を済ませて、大久保へ行つて、話をきめて来なさい。日中は暑くなつて、また出にくくなるからさア」
 をばさんは、浴衣の袖を書生のやうに、肩にたくしあげて、長煙管で煙草を吸つてゐる。
「ねえ定子ちやん、上海の餃子もお
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