うして日本食を召し上りながら、死んでしまふかも知れませんなんかと、淋しさうに云つていらつしやいましたが、……」
音楽学校の先生でショウジさんと云ふ方らしい。東京の列車から御一緒にパリーまで道連れにして貰はうなんぞと思つたのですが、何しろ二等で行かれるのでは、ケタが違ふので、私は六日遅れてしまつたのです。
「その方、運が良かつたのですね、私なんか無事に越せますかしら……」そんな事を話しあつてゐますと、チヽハルから、今婦女子だけが全部引上げて来たと云ふニュースがはいりました。女中達は、二三日泊つて様子を見てみたらどんなものかと云つてくれますが、様子なんぞ見てゐたら、まづ困つてしまふので、どんな事があつても、午後三時出発にきめてしまひました。ハルピンからシベリヤへ行く日本人は私一人です。エトランゼも居るにはゐましたが、ごく少数で、ドイツの機械商人と、アメリカの記者二三人と、まあ、その位のもので、あとは中国の人ばかりです。
「日本人の方でドイツへ行かれる方がいらつしやるんですが、二三日様子を見るとおつしやてゐますよ」
だが、どうしても様子を見てゐる旅費が切り出せないので、私は列車に乗る事にきめて、街へ買物に出ました。寒さに向つてではありますし、又、シベリヤの食堂車で、一々食事をとつてゐた日には、とても高くかゝると云ふ事でしたので、まづ毛布や食料品を買ひ込む事にしました。
ハルピンで買つた紅色の毛布、これはもう大変な思ひ出ものです。パリ―の下宿で、いま蒲団がはりに使用してゐます。
安いあけびの籠を買つて、それへどしどし買つた食料品を詰める事にしました。何しろ初めてのシベリヤ行きなので、――用心して買物をしたつもりでも、沢山抜けたところがあるんです。まづ、葡萄酒を一本買ひましたが、ハルピン出来を買つたので、苦味《にが》くてとても飲めたものではありません。外に、紅茶、林檎を十個、梨五個、キャラメル、ソーセージ三種、牛鑵二個、レモン二個、バターに角砂糖一箱、パン二個、ゼリー、それからヤカンや、肉刺、匙、ニュームのコップなど揃へました。また、アルコールランプや、オキシフルや、醤油や、アルコール、塩などは、溝口と云ふ商品陳列館の人に貰つて、これは大変役に立ちました。――それこそ、風呂に這入る暇もなく停車場行です。大毎の小林氏が、チヽハルとモスコーへ、誰か迎ひに出てくれるやうに電報を打つてあげませうと云つて下すつて、一人旅には一番嬉しいことでした。こゝでも私は二等の寝台に買ひかへて、乗る事にしましたが。――大分番狂ひで仕方もないのですが、二三日ハルピンで様子を見てゐたと思へば良いと、腰を落ちつけて何気なく、窓硝子を見ると、何と頬の落ち込んでゐる自分の顔を初めて見て私は驚いてしまひました。
ところで、荷物の事なのですけれども、小さいトランクを四つ持つより、大きいのを一ツと、手廻りの物を入れるスウツケースと、その方が利巧だと考へました。同室者は、ハイラルで降りる、ロシヤ人のお婆さんでした。髪の毛は真白でも帽子を被ると、赤いジャケツを着てゐますので、三十歳の若さに見えました。晩の九時頃が、命の瀬戸ぎはなのですが――この、ロシヤ婦人に大丈夫だと云はれて少しは落ちつきが出来ました。
3信
十四日です。
私は戦ひの声を幽かに聞きました。――空中に炸裂する鉄砲の音です。初めは枕の下のピストンの音かと思つてゐましたが、やがて地鳴りのやうに変り、砧のやうにチョウチョウと云つた風な音になり、十三日の夜の九時頃から、十四日の夜明けにかけて、停車する駅々では、物々しく満人の兵隊がドカドカと扉を叩いて行きます。
激しく扉を叩くと、私の前に寝てゐるロシヤの女は、とても大きな声で何か呶鳴りました。きつと、「女の部屋で怪しかないよ」とでも云つてくれるのでせう。私は指でチャンバラの真似をして、恐ろしいと云ふ真似をして見せました。ロシヤの女は、それが判るのでせう、ダアダアと云つて笑ひ出しました。私は此女と一緒に夕飯を食堂で食べました。何か御礼をしたい気持ちでいつぱいなんですが、思ひつきがなくて、――出発の前夜、銀座で買つた紙風船を一つ贈物にしました。彼女は朝になつても、その風船をふくらましては、「スパシイボウ!」と喜んでくれました。まるで子供のやうです。紙風船は影の薄い東洋人にばかり似合ふのかと思ふと、このロシヤのお婆さんにもひどくしつくりと似合ひました。手真似で女学校の先生だと云つてゐましたが、勿論白系の方なのでせう。
ひわ色に白にぼたん色に紙風船のだんだらが、くるくる舞つて、何か清々した風景です、窓のカーテンは深くおろしたまゝです、ハイラルには朝十時頃着きました、もう再び会ふ事はないだらう、此深切なゆきずりびとをせめて眼だけでも見送りたいものと、握手がほぐれ
前へ
次へ
全6ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング