シベリヤの三等列車
林芙美子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)苦味《にが》く
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|毛皮裏《ツユウパア》
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1信
満洲の長春へ着いたのが十一月十二日の夜でした。口から吐く息が白く見えるだけで、雪はまだ降つてゐません。――去年、手ぶらで来ました時と違つて、トランクが四ツもありましたし、駅の中は兵隊の波で、全く赤帽を呼ぶどころの騒ぎではないのです。ギラギラした剣附鉄砲の林立してゐる、日本兵の間を潜つて、やつと薄暗い待合所の中へはいりました。此待合所には、売店や両替所や、お茶を呑むところがあります。五銭のレモンティを呑みながら、見当もつかない茫々とした遠い道筋の事を考へたのですが、――「此間満鉄の社員が一人、ハルピンと長春との間で列車から引きずり降ろされて今だに不明なんですがね」とか、「チチハルの領事が惨殺されたさうですよ」なぞと、奉天通過の時の列車中の話です。あつちでもこつちでも戦争の話なのですが、どうもピリッと来ない。――兎に角、何処に居ても死ぬるのは同じことだと、妙に肝が坐つて、何度もホームに出ては、一ツづつトランクを待合所に運んで、私は呆んやりと売店の陳列箱の中を見てゐました。去年は古ぼけた栗島澄子や高尾光子の絵葉書なんか飾つてあつたものですが、そんな物は何も無くなつてゐて、いたづらに、他席他郷送客杯の感が深いのみです。
こゝでは満洲人のジャパンツーリスト社員に大変世話になり、妙に済まなさが先きに立つて、擽つたい気持ちでした。こゝだけでも二等にされた方が良いと云ふ言葉をすなほに受けて、長春ハルピン間を二等の寝台に換へました。不安でしたが、やつぱり金を出しただけの事はあるなんぞと妙なところで感心してしまつたりしたものです。
「内側からかうして鍵をかつておおきになれば大丈夫ですよ」
若い満人のビュウローの社員は、何度となく鍵を掛けて見せてくれました。こゝからはロシヤ人のボーイで日本金のチップを喜ぶと云ふ事です。で、やれやれこれでよしと云つた気持ちで鍵を締めて、寝巻きに着かへたりなんぞしてゐますと、何だか山の中へでも来た時のやうに遠い耳鳴りを感じました。四囲があまり静かだからでせう。此列車からホームまではかなり遠いのです。列車が動き出しますと、満人のボーイが床をのべに来てくれます。此ボーイは次の駅で降りてしまふので、床をのべに来る時、持つて来た紅茶の下皿に拾銭玉一ツ入れてやりました。やらなくてもいゝと聞きましたが、大変丁寧なので、やりたくなります。
四人寝の寝台が私一人でした。心細い気もありましたが、鍵をかつて寝ちまふ事だと電気を消さうと頭の上を見ますと、私の寝室番号が何と十三です。それにハルピンに着くのが明日の十三日、私は何だか厭な気持ちがして、母が持たしてくれた金光さまの洗米なんかを食べてみたりしたものです。迷信家だなんて笑ひますか、今だにあの子供のやうな気持ちを私はなつかしく思ふのですが……。十三日の朝八時頃、何事もなくハルピンに着きました。折悪しく私の列車は、貨物列車の間に這入つて行つたので、北満ホテルのポーターに見つかりもせず、とてもの事に一人で行つてしまへと、四ツのトランクをロシヤ人の赤帽にたのんで、兎に角駅の前まで運んで貰ひました。――冬のハルピンは夏より好きです。やつぱり寒い国の風景は寒い時に限ります。空気がハリハリと硝子のやうでいゝ気持ちでした。
「ヤポンスキーホテル・ホクマン」
これだけでロシヤ人の運転手に通じるのですから剛気なものです。古い割栗の石道を自動車が飛ぶやうに走つて、街を歩いてゐる満洲兵の行列なんかを区切らうものなら、私はヒヤヒヤして首を縮めたものです。
さて、一ツの難関は過ぎましたが、いよいよ戦ひの本場を今晩は通らなければなりません。
2信
全く何度も云ふやうですが、私はハルピンが好きです。第一に物価が安いせゐもあるでせうけれども、歩いてゐる人達が、よりどころもなく淋しげに見えるからでせうか……。北満ホテルへ着きますと、皆覚えてゐてくれました。去年のまゝの顔馴染の女中達でした。「こつちは大丈夫でしたか!」まづこんな事から挨拶を交はしたのですが、ハルピンは日本で考へてゐた以上に平和でした。「こつちは何でもございませんよ」長崎から来た女中なぞは、ハルピンは呑気なところだと笑つてゐます。窓から眺めた風景だけでも戦ひはどこにあるのだらうと思はせる位でした。――日本の茶漬も当分食べられないだらうと、朝御飯には味噌汁や香のものを頼みました。
「此間も日本の女の方が一人でお通りになりました」
「その方も無事にシベリヤへ行かれたやうですか?」
「はい、御無事で行かれたやうです。お立ちになります時、やつぱりか
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