ます。此ボーイは次の駅で降りてしまふので、床をのべに来る時、持つて来た紅茶の下皿に拾銭玉一ツ入れてやりました。やらなくてもいゝと聞きましたが、大変丁寧なので、やりたくなります。
四人寝の寝台が私一人でした。心細い気もありましたが、鍵をかつて寝ちまふ事だと電気を消さうと頭の上を見ますと、私の寝室番号が何と十三です。それにハルピンに着くのが明日の十三日、私は何だか厭な気持ちがして、母が持たしてくれた金光さまの洗米なんかを食べてみたりしたものです。迷信家だなんて笑ひますか、今だにあの子供のやうな気持ちを私はなつかしく思ふのですが……。十三日の朝八時頃、何事もなくハルピンに着きました。折悪しく私の列車は、貨物列車の間に這入つて行つたので、北満ホテルのポーターに見つかりもせず、とてもの事に一人で行つてしまへと、四ツのトランクをロシヤ人の赤帽にたのんで、兎に角駅の前まで運んで貰ひました。――冬のハルピンは夏より好きです。やつぱり寒い国の風景は寒い時に限ります。空気がハリハリと硝子のやうでいゝ気持ちでした。
「ヤポンスキーホテル・ホクマン」
これだけでロシヤ人の運転手に通じるのですから剛気なものです。古い割栗の石道を自動車が飛ぶやうに走つて、街を歩いてゐる満洲兵の行列なんかを区切らうものなら、私はヒヤヒヤして首を縮めたものです。
さて、一ツの難関は過ぎましたが、いよいよ戦ひの本場を今晩は通らなければなりません。
2信
全く何度も云ふやうですが、私はハルピンが好きです。第一に物価が安いせゐもあるでせうけれども、歩いてゐる人達が、よりどころもなく淋しげに見えるからでせうか……。北満ホテルへ着きますと、皆覚えてゐてくれました。去年のまゝの顔馴染の女中達でした。「こつちは大丈夫でしたか!」まづこんな事から挨拶を交はしたのですが、ハルピンは日本で考へてゐた以上に平和でした。「こつちは何でもございませんよ」長崎から来た女中なぞは、ハルピンは呑気なところだと笑つてゐます。窓から眺めた風景だけでも戦ひはどこにあるのだらうと思はせる位でした。――日本の茶漬も当分食べられないだらうと、朝御飯には味噌汁や香のものを頼みました。
「此間も日本の女の方が一人でお通りになりました」
「その方も無事にシベリヤへ行かれたやうですか?」
「はい、御無事で行かれたやうです。お立ちになります時、やつぱりか
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