終わり]
豚はお月様にこんなおねがいごとをしました。豚はとうとういのししになりました。いのししになると、急におなかが空いてしかたがないのです。自分のそばでよくねんねしている鶏のひよこを食べようかと思いました。鶏とは大変仲がよかったけれど、もういのししになったのですから、豚は何となくいばってみたくて鶏を起しました。
「おいおい鶏さん起きないか」
「あら、もう夜があけたのですか、豚さん」
「まだ夜中だよ、いいお月様だよ」
「あああかるいのはお月様のせいですか」
「鶏さんは、わたしのこのきばが見えるだろう」
「きば」
「わたしはねえ、今夜からいのししになったんだぜ」
「まア、いのししに、まだ、何もみえないけれど、どうしてきばなんか持ってきたんですか?」
「持ってきたんぢやないよ。わたしはもうほんとうのいのししさんなんだぜ。君のひよこをすこしわけてくれないかね。わたしはさっきからとてもおなかがすいているんだよ」
鶏はびっくりしました。
急に羽根の下のひょこをきつく抱きしめました。ひよこは六羽いました。ひよこはぴよぴよなきました。豚はじっと月の光で鶏をみていました。二羽のひよこが鶏の羽根の下からひょこひょこと出て来ました。
いのししはのどがぐるぐるとなりそうです。いそいで、出来たてのきばでひよこをつきさしてむしゃむしゃ食べました。眼のみえない鶏はかなしそうな声で大きく泣きました。
「どうして、豚さんはそんならんぼうな事をするのですか、せっかく仲よくして、平和にくらしているのに、あなたはどうして私の赤ちゃんをいじめるのですか」
いのししはあんまり鶏がさわぐので、あきらめて、山の方へ行く道をひとりで歩いて行きました。山道を歩きながら、豚はとても得意でした。立派なきばがうれしくてしかたがないのです。もとから、自分は豚なんかじゃなくて、えらい山の王様だったのだと、いままで豚なんかでいたことがくやしくなりました。
山へはいった豚は、毎日小さいけものを追っかけて食いころしたりいじめたりして、山のけものからすっかりきらわれました。山の中はとても平和で、小鳥もけものも楽しい日をおくっていましたのに、きばをつけた妙なかっこうのいのししが山へ来てから、みんなのけものは心のやすまるときはありませんでした。
いままで山の王様だった鹿は、そっとけものをあつめていいました。みんながまんをして、そっとして暮していようね、いまに、里から人間が来て、あのきばのある豚をたいじてくれるだろうとなぐさめていました。そのうちだんだんけものは豚に食われて行きました。山はさみしくなって、小鳥もあまりさえずらなくなりました。豚はますます得意でした。そのうち、ある日のこと、ほんとうに里からたくさんの人間が山へてっぽうを持って来て、きばを持った豚をうって行きました。
里にいた鶏は、てっぽうでうたれた豚をみてびっくりしました。かわいそうでしかたがありませんでした。どうして、豚さんはきばなんかほしがったのだろう、あんなものをほしがらなければ平和に暮してゆけたのに、ほんとうにかわいそうなのぞみを持った豚さんだと、鶏は大きくなったひよこにいいました。
おとうさんはこんなにおもしろいおはなしをして下さいました。僕は、これから、一つずつ、おとうさんのおはなしを日記にかいておこうと思います。
5
おとうさんが、戦争へ行く前にいつかいっていました。戦争がすんだら、たくさんおさとうが来るから、そしたらおしるこをどっさりたべようねっていっていました。だから、僕は、おとうさんに、
「もう、戦争がすんだのですから、おしるこをどっさりたべられるのでしょう」
とたずねました。
おとうさんはへんなかおをして、
「戦争に敗けておしるこなんかたべられないよ」
とおっしゃいました。
でも、このあいだ、中野のとおりをおかあさんと歩いていたら、一ぱい十円のあまいあまいおしるこというびらを露店でさげているのを僕はみたのだけれど、一ぱい十円もするおしるこはどんなにあまいのだろうと思いました。
おかあさんは「高いおしるこね」とおっしゃいました。
僕は早くおうちでおしるこがたべられるといいなと思いました。おさとうは台湾でたくさんできていたのだそうです。おさとうって、どうしてつくるのでしょう。おとうさんに、おさとうはどうしてあまいのですかとききましたら、そうだなア、おさとうのあまいのはどうしてあまいのかときかれるとちょっと困るねとおっしゃいました。おとうさんは何でもよくしらべてから僕にはなしてくれます。
僕は何でもふしぎです。空をみてもふしぎです。ひるまは、ふわりふわり雲がういていて、青い空は、どこまで行っても広いのです。夜になると、青い空はくらくなって、どこまで行ってもくらいのですものね、そして、時時、お星さまがぴかぴか光っています。その星にはみんな名前がついているのだそうです。僕は北斗七星を知っています。星で東西南北がわかるというのもふしぎです。
それから、僕は、お庭をみていてもふしぎです。
僕のお家の庭には、うめもどきが一本うわつています。このあいだまできれいな赤い実がついていました。あんなひんじゃくな木から、まるで兎の眼のような赤い実がなるなんてふしぎです。
それから、このあいだ、要さんからみかんをもらったけれど、あれだって、どうして、あんなにおいしい実がなるのかふしぎです。
おとうさんは、何でもふしぎだと思うことはいいことだとおっしゃいました。何をみても何も感じないでいることは人間に生れてさみしい事だとおっしゃいました。
僕たちが要さんのお家へ行って、二三日して、要さんがあそびに来ましたので、僕は何でもふしぎなことばかりだとはなしますと、要さんは、
「そうだよ、此世のなかはふしぎなことばかりだよ。でも、一つずつそのふしぎななぞをといてゆくのも面白いものだね」
と、いいました。
要さんは機械いじりが好きです。それにたいへん耳がいいので、僕の家のラジオが、があがあと変な音をたてると、すぐラジオの前へ行つてダイアルをまわして調子をなおしてくれます。
要さんは音楽も好きです。
僕も音楽は好きです。きれいな音をきいているのはきもちのいいものです。それから、僕は、おとうさんやおかあさんの声も好きです。学校からかえっておかあさんの声がしていると、僕は何だか安心した気持になってうれしくなります。
おとうさんは、このごろ、仕事をおさがしになっています。戦争の前におつとめになったところはおやめになったので、いまはおとうさんはお仕事は何もありません。
おとうさんは毎日おうちを出てゆかれます。おかあさんは、おとうさんに早くいい仕事がみつかるといいと僕におっしゃいます。
おかあさんが買物にいらっしやる時は、いつも僕がリュックを持ってついて行きます。すると、近所のおばさんが、
「健ちゃんぐらいになれば、もう、おかあさんのお手伝いが出来ていいですね」
と、いいます。
おかあさんはにこにこして、
「ええ、一人で行くよりはいいですね、一人では、高いわね、だの、安いのはないかしらなんてひとりごといえませんものね‥‥こんな小さい人でもいれば、何でも話が出来てなぐさめになります」といいます。
僕は昨日もおかあさんと新宿へ行って、ローソクの安いのをみつけてあげました。安いのがみつかると、おかあさんはうれしそうに「まア、ありがたいわ」といいます。どうして、こんなにものが高いのかふしぎです。おかあさんの小さいころは、何でもやすくていいものがどっさりあったのだそうです。
6
このごろ、おとうさんは夕方になると、「ああつかれたね」といってかえってきます。
静子と宏ちゃんはまだ小さいから、いつでも同じように、
「おとうさん、おみやげは‥‥」といいます。
僕は静子と宏ちゃんにわざとこわい顔をします。静子には、何度いってきかせてもおとうさんがお仕事をみつけにいらっしやる事がわからない様子です。
おとうさんのまるい顔がすこしやせてきました。僕はお夕飯のあと、おとうさんの肩をたたいてあげます。
おとうさんはこのごろとてもさみしそうです。僕はおとうさんが何かよろこんで下さるようなことはないかと思います。
今夜、僕は何だかさみしかったのでおとうさんといっしょにねました。
「おとうさん」
「何だ」
「おとうさんはいくつですか」
「いくつかって、おとうさんの年かね、そうだね、もうじきとしを一つとるね」
「いまいくつですか?」
「いまは三十四だ」
「まだ若いのですね」
「ははア、そりあ若いさ、でも、もうすぐ三十五だよ」
「僕もおとうさんのように早く三十五になりたいなア」
「うん、健坊が大きくなる頃は、いい時代になるだろうね、健坊はえらい人にならなくてもいいから正直なこころをもったいい人になるんだね」
おとうさんは、僕の肩に、寒くないようにお蒲団をかけてくれました。次の間で、おかあさんが、
「ねえ、三升ほどもちごめがたまりましたから、餅をつきましょうかしら」と、おっしゃいました。
僕はうれしくて、へえ、といいました。
「おとなりで、お餅の道具をかりて来るんですって、ごいっしょにつきましょうとおっしゃって下さるのよ。少しばかりだけれど、子どもたちがよろこぶでしょうから‥‥」
おとうさんは、「そりやアいいね、たとい少しでもいいさ、子どもたちがよろこぶよ」と、いいます。
「いつ餅をつくの?」僕が寝床からたずねると、
「三十一日ですって、健ちゃんも手伝ってね」
と、おかあさんがおっしゃいました。
僕はうれしくて胸がどきどきしました。
ぺったんこ、ぺったんこと餅をつく音がきこえてくるようです。
玄関で誰かが呼んでいます。おとうさんがおかあさんを呼びました。
「いまごろ、きみがわるいわね、誰でしょう」
時計が九時を打ちました。
おとうさんがすくっと起きて玄関へ行かれました。
「そりやア心細かったでしょう、まア、お上り下さい」
誰かをおとうさんがあげているようです。おかあさんも出て行かれました。僕は誰だろうと耳をすましていました。
「お互にひどいめにあいましたね。寒かったでしょう、さア、どうぞ――」お客さまの声はきこえない。
「まア、大きいお魚、黒鯛ですわね」
おかあさんの声。お魚を持ってきたのかしら。こんなにおそくお魚を持ってくるなんて変だな、どこの人なのだろう。僕は何だかこわいなと思いました。
7
朝起きたら、だいどころに、大きい黒鯛がかごのなかにありました。僕は、こんな黒いおさかなをみるのははじめてです。
「立派だなア」
と僕がいいますと、宏ちゃんも起きて来て、びつくりしています。お座敷では、もうお客さまが朝ごはんをたべていました。誰だろうと思っていたら、静子がおとなりの吉田さんのおじさまなのよ、とおしえてくれました。
吉田さんのお家には、子どもはいないのだけれど年をとったおばあさんがおられるので、早くから宇都宮へ疎開して、もうおとなりには安藤さんという人たちがひっこして来ています。吉田さんは、宇都宮でお家がやけたのだそうです。こんなことなら、東京にいた方がよかったのだ、と吉田さんは残念そうにしていました。
吉田さんのお家では、おばあさんもなくなられたのだそうです。とてもいいおばあさんで、目の悪いひとでしたけれど、僕たちが裏庭に入って行くと、ちゃんと僕を知っていて、夏なんか、よくおばあさんにあきかんだの木箱だのもらいました。かんからをもろうと、それでメダカをすくいに行ったものです。
木箱は、蝶蝶の標本箱にしました。
おばあさんは、田舎の人なので、花や草の名前はよく知っていて、僕が持って行く草の名前を何でもおしえてくれました。いつだったかおとうさんと信州の山へ行って、たくさん、草を持ってかえって吉田さんのおばあさんにききました。
まんさくだの、かしわの葉、あかしで、いぬしで、いぼた、白い花の咲くがまずみ、うつぎ、赤い花の咲くはこねうつ
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 芙美子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング