だの、カノコシボリだのという札をぶらさげるので、みんな笑います。金井君はすぐその種をほじくって捨てるので、大谷君がちょっと気の毒になります。

     16[#「16」は縦中横]

 今日は、おかあさんのぐあいがわるいので、僕は畑をしないで、早くお家へかえりました。朝、お医者さまがみえたのだそうで、おかあさんは当分しずかに寝ていなければなりません。おかあさんはあかい顔をして、手拭を頭にあてていました。
「おかあさま、大丈夫なの」
 おとうさまにききますと、
「ああ、すぐなおるよ。つかれも出たんだし、栄養失調もあるのだから、当分寝ててもらうのさ」
 とおっしゃいました。
 静子もとても心配しています。
 おとうさんは、近所のやみ市へ卵を買いに行くのだというので、静子や弟を留守番にして、僕とおとうさんは出かけました。
「おい健坊!」
 おとうさんがまじめな顔でいいました。
「おかあさんは、胸も少しわるいから、こんどは少し病気が長びくかもしれないけれど、がっかりしないでやるんだよ――いよいよ、お家もこれから大変なのだから、へこたれちゃいけないね。おとうさんは、会社をあまり休むわけには行かないから困るけれど、健坊が力になってみてくれなくちゃいけないよ、いいかい」
 とおっしゃいました。
 僕はどんなことでもしようと思います。
 兵隊に行って戦死した人のことを思えばどんなつらいことだって出来ると思いました。
「日本は戦争に敗けたんだから、このくらいのことはあたりまえなのだよ、お家をとられて、みんなちりぢりになっても文句はいえないのだから、このくらいのことは、まだまだしあわせだと思って、今年一年やって行けば、そのさきは、いまよりらくになるだろう。くるしみのあとには、きっとらくになれるもんだ」
 僕もおとうさんのお話のとおりだと思っています。どんなに苦しいことがあっても、がまんしてやって行こうと思います。
 今日はお天気がいいので、たくさん露店が出ていました。卵はたいてい四円五十銭から四円八十銭という札が出ています。おとうさんは、四円八十銭の卵を二つ買いました。それから、うなぎのきもを一皿買いました。キャベツも一つ買いました。
 僕たちにはいわしだの、干にしんを買いました。
「おとうさん、あんまりお金つかって大丈夫」って、ききますと、おとうさんは、
「こら、子どものくせに生意気いうでない」って笑っています。
 僕のおとうさんは、いつもにこにこしています。すこしもしかりません。
「今日はおとうさん、お金持ですね」
 と僕がききますと、
「そりあそうさ」
 と笑っています。
 夜、静子にきいたら、おとうさんは、どこかのおじさんをつれて来て、本だのレコードだのお売りになったのだそうです。
 おとうさんは、とても音楽が好きでした。
 僕はいつも、おとうさんがかけて下さるモルドウというのが好きでした。それから四台のピアノも好きです。モルドウというのは、河の流れを曲にしたのだそうで、山の奥から街の中へ流れて行くまでの河のすがたが目にみえるようです。
 モルドウを売られては淋しいと思いました。それから、本もおとうさんは大切にしておられたので、何だか気の毒に思いました。
「おとうさん、本だなのレコード売ったんですか」
「ああ、あんなもの、焼けたと思えば何でもない、よその人が、たのしんでくれると思えばいいんだよ」
「モルドウはどうしたの」
「ああ、あれはまだあるよ」
「ああよかった」
「でも、いまに蓄音機も売ってしまうかもしれないよ」
「僕、いやだなあ」
「いやだっていっても、僕たちは戦争に敗けたんだよ。当分はぜいたくなことはいっていられないよ。みんな、いっしょにくるしむ時代なんだから。――おとうさんは、お前たちだけは何も知らせないって気持はないから、何でも話しておくけど、戦争に敗けたということをなまぬるく考えていちゃいけないのだよ。戦争に敗けることが、このくらいのなまぬるさだったらまたいつか戦争みたいなことがおこりかねないね。永久に戦争ってなくしたいことに努力するのが、いまの人たちの責任なんだよ」
 おとうさんは暑いので、アンダシャツ一枚で台所をしています。蛇の目の傘の破れたのでくしをつくって、おとうさんはうなぎのきもを焼いています。
 とてもいい匂いがして、弟は早く食べたいとさわぎます。
 静子はキャベツをこまかく切っています。
「ねえ、健ちゃん、もうこれで四円ぐらいキャベツ切っちゃったわ」
 といっています。
 食物がこんなにたくさんあると、僕は何だか変です。夜はパンをつくるのだそうです。僕は粉ひきで麦をひきます。手が痛くなったけれど、がまんしてハンドルをまわします。
 キャベツのはいったパンを食べるなんてどんなにおいしいだろうとたのしみです。
 八
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