のやうに寒かつたが、相変らず舗道には人が溢れてゐた。枯れた銀座の柳にも何か風情があつて、春らしかつた。もう三四ヶ月もすると、あの柳にも青い芽が出る。せん子は風呂敷の中の、コマゴマした道具の音も冷たく心に感じながらも、春を待つてゐる気持ちは、街の誰よりも強くあこがれてゐるのであつた。
「せん子さんぢやないの‥‥」
「あらア、直子さん、どうしたのさア‥‥まア、元気で」
 自動電話の蔭に、支那織りの黒いコートを着た直子の手をつかんでせん子は子供のやうに息をせかせか切つてゐた。
「心配かけて済みません」
「そンなことどうだつていゝけれど、一度岡田さんが来たツきりよ、それから、あンな呆んやりしたあなたの手紙、探しやうが無いぢやありませんかツ」
 二人、たつた四五日の別れであつたのに、何から話していゝか、あれもこれも、云ひたいことばかりがいつぱいであつた。――だがせん子の唇をついて出ることは、「丈夫で生きてゐてよかつたわ」といふ言葉ばかり。

 9 二人はせかせかした気持で松坂屋へ這入つて行つた。いまの二人には、かへつて、このやうな雑沓のなかゞ落ちつけて話の出来る場所であつたのであらう。
「私、いま盲めつぽうなのよ‥‥只母親と子供の事を考へると切なくなつてしまふけれどねえ、人間つて、どうにもならなくなつてしまふ場合つてあるぢやないの‥‥」
「何いつてンのさア、そんな、どうにもならない場合なンてものは、自分自身がつくるンですもの‥‥子供や、お母さんの事考へたらもつとどうにかなるものよ」
「えゝ――」
「えゝぢやないわよ、大丈夫? 気が弱くつちや駄目、――牧さんの方だつて、奥さんも子供さんもいらつしやるンですもの、判るでせう?」
「えゝ」
 あんなに、いつぱいあれもこれも話しがありながら、かう、つきつめて来ると、二人とも、中心よりも遠い線をもどかしくぐる/″\廻つてゐるだけであつた。
「お粒さんはどうしてるウ?」
 熱い茶をゴクリと呑み干すと、直子は白けきつた気持ちで、別の話にうつゝた。
「あのひとはあンなだもの‥‥このごろパトロンが出来て満洲へ行くとか云つてたわ――二人新らしい人が這入つて来たの知らないでせう。一人は素人だつたンだけど、このごろは結構、あの空気に染つて、はづかしツ気もなく大きな声で唄をうたつて酒を呑んでるわよ」
「まア、さうなの‥‥サトミさん達は?」
「さあ、今日あたり百合子さんと御同伴で広島の方へ行くつて云つてたけれど、――あの人達はあの人達でいゝわ。子供や亭主がないンですもの、その点、私なンぞより、よつぽど気楽で、せか/\しなくツていゝし」
「全くね、だけど、あのサトミさんてひと、どつか違つてる人ね、呆んやり退屈さうな風でゐて、落ちついてゐのね[#「ゐのね」はママ]、私、自分は自分で、あンな酒場の空気に汚れないひと、好きだわ」
「だつて、この頃、お粒さんだつて、操さんだつてとても気弱で、そりやアいゝ人達になつたわ、だけど、操さんの大森発展は困りもンだけど、あれはあれで仕方がないぢやないの、御亭主が市ヶ谷へ這入つてンですつて佗しい話ねえ」
 二人は廊下を話しながら歩いた。琴を買つてゐるお嬢さんが、コロリンシャンと、何度も糸を弾きながら母らしい人と談笑してゐる。
 直子は眼を伏せて古里の事を偶と考へてゐた。柿の実の赤々と熟した娘のころの思ひ出の中に、「黒髪」がよく弾けたこと――今かうして、何でもない行きづりの琴の音を聞くとたまらない気持ちであつた。そして、妙に音楽と云ふものが、甘く心に来ると、牧と、この儘、行くところまで行つて死んでしまつてもいゝと云つた風な気持ちになるのであつた。
「何にしても、人生つて、くたびれるところなのね」
「直子さん! あンたはまだ本当にお嬢さんだわ、私、このごろでは、人生と根くらべよ――私、子供にオルガン習はせてやりたいことが理想なンだけれども‥‥えゝ一生の仕事として、それをやつてやりたいと考へてゐるのよ、私は、生きてゐることは楽しみだともこのごろ考へだしたわ」

 10[#「10」は縦中横] 雲の飛ぶよな
 今宵のあなた
 みれんげもない
 別れよう‥‥

 料理店リラの女達の中には、この唄はまだまだ唇に苔むされてゐた。
 お粒は、酒にも弱くなつたのか、毎日呆んやり煙草を吸つて唄つてばかりゐた。――サトミは相変らず、底の判らない顔色でニヤニヤ笑ひながらレコードをかけてゐる。百合子は百合子で、華美な着物ばかりつくつて操達をうらやましがらせてゐた。
 雪もないうららかな日が続いた夕方――静かにレコードの始つてゐるリラの扉をあけて、
「おい! とう/\やつたよツ! ホラツ」
 せん子が第一番に、立ち上つた。岡田は震へる手つきで、マホガニの卓子の上に新聞紙をひろげた。
 ――牧法学博士一女給と心中を計る
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