、オルガン習はせてくれるの?」
「さうね、もう三つねんねしたら、オルガンの先生ンところへ行きませうね」
「さう‥‥お祖母ちやん嘘吐きだナ、オルガンの先生なンかみンな死ンぢまつてゐないつて云つたよウ」
「それは、竜さんが、あんまりおねだりするからよ、学校から帰つたら、おとなしくしてるの、さうしたらオルガンの先生ンところへ連れてツたげますよ」
 せん子に似て、子供の唇にも可愛い黒子があつた。
 バンド・セールをつけた子供の手を引いて郊外の停車場まで来ると、
「では、行つて来ますよ、お母さんをお送りしたら、自動車に気をつけて真ツ直ぐに帰るンですよ。お土産を持つて帰りますからね」
「うん‥‥」
「オヤ、どうしたの、呆やりしたりなンかして、え、竜ちやん!」
「何でもないんだよツ、お父ちやんが 淋しさうだから早く帰つてねツ」
「竜さんの馬鹿、ホッホ……あンたが淋しいンぢやない‥‥」

 せん子は、胸がふくれあがりさうにうれしかつた。どんなにヒクツな、いまの生活であらうとも、耐へて行かなければならないと考へるのであつた。
「ひがんでいふンぢやないが、実際お前にとつて俺はやつかい者だね」
「まア水くさい。貴方が働けるやうになつたら、私長火鉢にをさまつて、貴方をこき使つてやらうと、今からテグスネ引いてるンぢやないのよウ‥‥」
 こんなたわいのない事で慰めあひながら、笑つて涙ぐむ今の二人である。
 電車の中には自分の子供と同じやうなのが、雀のやうにさへづりながら沢山乗つてゐた。父親に似て音楽の好きな子供、オルガンを習はせてくれとせびる可愛い姿を思ひ浮かべると、せん子はどんな事をしても、オルガンを習はせてやりたいと思つた。――だが、又、思ひ返してみると、理想の生活は、何時も遠く正反対の空を飛んで行つてゐる。少し位は、手も唇も許す心算でなければ、女給暮らしと云ふものは、さう収入のいゝ仕事では、今ではなくなつてゐるのだ。
 と、云つて、直子のやうに、母も子供も捨てられる程、若くもない年齢である。――せん子は、ゴトゴト電車に揺られてゐながら、たゞ、いつも、呆んやりと考へに耽ることは豪壮な邸宅でもなければ、また、華美な、訪問服のことでもなかつた。子供の掌に握らせてやる、少しばかりのオルガンの月謝のことばかりで、それは、詩よりも高価で手のとゞき易い許された、何と可憐な空想であつたらう。
 街は硝子
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