はなかったかも知れないが、いくらキュウピットの矢は無くても、恋をするのに別段不便は感じないのだ。その証拠には、このお妙がそれで――とにかく、これは戯《ふざ》けて済む問題ではなく、お妙は、この時はもう、立派に喬之助を恋していたのだった。
 もっとも、はじめから、そんなはっきりした心もちで、そのため、窮地《きゅうち》にいる恋人を救おうなどという気もちから、ああして父親と喬之助の間へ身を投げ出して、自分でも愕《おどろ》くような口をきいたわけではなく、あれはただ、父壁辰から受け継《つ》いでいる江戸ッ児、江戸ッ児の中でも下谷ッ児の気性《きしょう》が、あの瞬間ムラッと胸にこみ上げて来て、言わば無意識のうちに、気がついた時は、かの女はもうああした思い切った行動をとっていたのだった。何を言ったか、自分ではよく覚えていない。その中でただ一つ、いまだに自分の耳でがんがん[#「がんがん」に傍点]鳴りつづけている自分の声がある――この人は、あたしのいい人でございますよ!
 ああ、なぜ、あんなはした[#「はした」に傍点]ないことを言ってしまったのであろう。
 真剣《しんけん》の時は、思わずほんとの心が出るものだ
前へ 次へ
全308ページ中85ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング