にとって、お六という女は、この大都会江戸の陰影に呑まれたきりになっているのだった。
放蕩無頼《ほうとうぶらい》、箸にも棒にも掛らない長庵だが、この初恋の女お六だけは、その後も、何ということもなく忘れ得ずに、かくして時どき思い出している。
今も、博奕《ばくち》に負けて無一物、たった一枚の着物も、擦り切れないように緊縮して、家にいる時は、いつも裸で済ましている長庵だ。暑い時だから、結句これもいいと、ぼんやり蚊を追いながら考えているのは、かなり前に別れたままのお六のことである。
「粋《いき》な年増《としま》になりやがったろう。畜生め!」
と、この畜生め! で、また一匹威勢よく蚊をたたいた時、ガラリと鼻ッ先の格子を足で蹴開《けあ》けて、
「何だ、何だ、粋な年増がどうしたんだ」
肩に弥造《やぞう》を振り立ててはいって来たのは、長庵の相棒《あいぼう》、戸塚《とつか》の三|次《じ》だ。三尺の前へ挾んでいた裾をパラリと下ろして、肩の手拭をとって、パッパッと足もとを払いながら、戸塚の三次は渋い声を出すのだ。
「おッ! まっ暗じゃアねえか。長庵さん、お在宿《いで》かえ」
「居るよ。ここにいらあな。まア、お上り」
長庵は火打ちを捜《さが》して、そこらをガサガサ撫で廻している。
五
ガサガサ畳を撫で廻すような音を立てて、一同は、剣を取って群《むら》がり立ったが、しかし、大いに不思議である。
出て行った喬之助が、すぐまた、まるで離れたところからはいって来る。
が、これは、先の出て行った喬之助が真個《ほんと》の喬之助なら、あとの、はいって来たほうの喬之助は、ベツの喬之助――別の喬之助てのも変だが、つまり、神田帯屋小路の喧嘩屋先生、茨右近にきまっているのだが、番士達も源助町も、こういうからくり[#「からくり」に傍点]はすこしも知らないのだし、それに、顔形《かおかたち》は勿論、表情から着付《きつ》けから、刀まで同じなのだから、とっさに喬之助が、身をひる返して、その二十畳もあろう広間の反対側から現れたものとのみ思い込み、どうも神変不可思議《しんぺんふかしぎ》なやつだと内心舌を捲きながら、一同、それぞれ剣に弾《はず》みをくれて、一挙にこの茨右近を屠《ほふ》り[#「屠《ほふ》り」は底本では「屠《ほう》り」]去るべく、一団となって襲い掛ろうとすると、敷居を踏み切って斬り込ん
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