畳を蹴《け》り、喬之助に追いすがった。が、喬之助は、手早く障子をあけて、消えるように縁へ出る。と、同じ秒刻《びょうこく》に、反対側の、奥の間へ通ずる襖がサラリとあいた。声がした。
「おい、ここだ。ここだ」
ギョッ! として振り返った一同の眼にうつったのは、やはり、神尾喬之助……。
神出鬼没《しんしゅつきぼつ》という言葉があるが、これはまたどうしたというのだ!
同じ人間が、出て行くと同時に、反対側から、はいって来る――。
一同は、廻れ右をして奥へ斬尖《きっさき》を揃えながら、コソコソ顔を見合って、首を捻《ひね》った。
四
村井長庵は、ピシリ! と大きな音を立てて、裸の尻ッぺたを叩いた。赤い血が、小さな花のように咲いて、蚊の屍骸が一匹、押し葉のように潰れて貼りついていた。
長庵は、舌打ちをして、蚊の屍体を摘《つま》み上げた。
「腹に縞《しま》がある。藪っ蚊だ。こいつは非道《ひで》えや」
うす闇黒《やみ》の中で、ひとり言をいった。言いながら、医者だけにクスリと笑って、
「藪のところへ、藪ッ蚊とは、この野郎、洒落《しゃれ》たやつじゃアねえか」
つまらないことに感心をして、独りでニヤニヤ笑っているのだが、自分の事を藪と知っているのは、長庵、悪党だけに中なかおのれを心得ている。
「ただの一夜を七夕《たなばた》さまが、それも雨ふりゃ逢わずに帰る。何と逢瀬《おうせ》があわれやら――」
七月のことで。
長庵はかく低声に唄いながら、その、夕方になっても未だ灯もつけない、空家《あきや》同然のおのが住居の中を、珍しそうに見廻している。
麹町平河町一丁目。町医長庵が家。
打ち水、蚊やり……と世間さまは暑熱《しょねつ》と闘うに忙しいのだが、この長庵の宅と来たら、これはまた恐ろしく涼しい限りで、家具と名のつくものは愚《おろ》か、医者の道具らしい物も何一つもなく、まことにサッパリと夏向きである。おまけに、本人の長庵はこの通り丸裸で、それでも、坊主頭に頭巾《ずきん》だけは被《かぶ》ったままで、六尺ひとつ、壁に凭《よ》り掛って、先刻からモゴモゴ何か言っている。
柄になく、思い出に耽《ひた》っているところ……どうもお金がなくなると思い出にふけるのが、この長庵先生の習癖《くせ》のようで。
大岡越前守忠相様が、南のお町奉行を二十|年《ねん》御勤役《ごきんやく》にな
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