。動けなかった。
 江戸の春は老けた。
 やがて青葉若葉の初夏――それも今は、町の各所に打水がにおって、もう苗売《なえう》りではない、金魚売り、すだれ売りだ。来るべき猛暑《もうしょ》を思わせて、何となく倦《だる》い日が八百八町につづいている頃、本郷は追分のさき、俗に鰻畷《うなぎなわて》と呼ばれるところに。
 がっしりした瓦屋根と立樹を囲むなまこ塀の一塀、それは西丸御書院番士、長岡頼母の屋敷である。
 今宵は、この長岡の家に、残りの番士一同と源助町の助勢の顔もちらほら見えて、大一座、わいわい言って神尾喬之助討取策を評議していたのだ。その最中、ちょっと自室から取って来る物があって、その寄り合いの席の奥座敷を中座し、何ごころなく、この自分の書院へ来て見た主人の頼母である。障子に手をかけてはいろうとして、発見したのだ。ギョッ! として手を引くと同時に、頼母は吸い込まれるように、その貼札に見入っていた。
 室内は、明るい。燭台《しょくだい》が点《とも》し放しになっているのだ。その、灯を背負って赤い障子に貼られた忌中《きちゅう》の文字は、大きな達筆である。嘲笑《あざわら》うように、また揶揄《やゆ》するごとく、くっきり浮き上っているのが、まことに凶事《きょうじ》そのもののように、不気味に見える。
 障子をあけてはいる。そんなどころではない。室内《なか》にいるかも知れないのだ。この戸ひとつがくろがねの――容易に開けられる障子ではない。頼母は、衆議をぬけて自身ここまで取りに来た、その品物が何であったかさえケロリ忘れて、退《ひ》くも進むもならない。茫然《ぼうぜん》自失の態《てい》……気がつくと、シインと全身に汗を掻いていた。
「何やつのしわざ?――何やつとは、勿論《もとより》、きゃつのしわざに決っておるが、この厳戒の当屋敷へ、しかもこの集会の最中、一体どこから忍び込んで、そして今は、そもどこに隠れているのであろう――?」
 これが、混濁《こんだく》した頼母のあたまへ、最初に来た質問の一つだ。同時にかれは、反対側の雨戸へ、張りつくように身を引いて、じイッ、聞き耳を立てながら、長い廊下の左右へ眼を配った。
 遠く会議の席からかすかに、人声が伝わって来るだけ、何の変異《へんい》もなく、静まり返っている。部屋の中から射す灯《あかり》で、そこらは茫《ぼう》ッと明るく、廊下の先は、夏の夜ながらうそ
前へ 次へ
全154ページ中108ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング