かけて転《まろ》ぶがごとく、その、たったいま喬さまのお顔の見えた窓の下へ来てみる――と、人影もない。
おや!……と、見廻した。ここに立って覗《のぞ》いていなすったのだが、どこへいらしったのだろう? ハテ、無いものをあると見たのかしら? 兇変《きょうへん》があると、心が飛んで来て姿にあらわれるという。もしや……エエ縁起でもない! 自ら問いみずから打ち消して、園絵は呆然と立ちつくしている。裏木戸近くの風呂場の外だ。生《お》いしげる笹の葉から宵《よい》やみが立ち昇って、山の手の逢魔《おうま》ヶ|刻《どき》、森閑としている中に、夕餉《ゆうげ》の支度に忠助が台所で皿小鉢をうごかす音――いつまで立っていても、いない喬さまが出てくるわけはない。
帰りましょう帰りましょう……引っ返そうとした。と、声がした。
「アノ、ちょっと御新《ごしん》さん――」
女の声だ。ふり向く。裏木戸《うらきど》のそとに女のすがたがある。しきりに手招きしているのだ。その手招きに吸《す》い寄せられるように、園絵は二、三歩、そっちへよろめいた。
「どなた――どなたでございます。何ぞ御用でございますか」
「ホホホホ厭だよこの女《ひと》は、用がなくて神田くんだりから出てくるもんですかね」
これが初対面の挨拶だ。見ると、黒襟の半纏をズッこけそうに引ッかけて、やけの洗《あら》い髪《がみ》、足の指にはチョッピリ鳳仙花《ほうせんか》の紅《べに》をさしていようという、チャキチャキの下町ッ児、大変者《たいへんもの》の風格だから、園絵は思わず用心をして、
「御用がおありでしたらおはいりなすって下さいまし」
「焦《じ》れッたいねえ。お前さんに出て来て貰いたい用なんでございます」知らずのお絃は、どこへ出てもこの調子だ。せっかく喬之助に会わしてやろうと、茨右近と一緒に駕籠まではずんで迎いに来た。その当の相手が、何だかじぶんを疑って二の足を踏んでるようすだから癪《しゃく》にさわってたまらない。持前の気性でポンポンやり出す。「あたしゃ知らずのお絃というやくざ[#「やくざ」に傍点]女《もの》で、まともの口をきくことなんか、名前のとおりにまったく知らずでございますのさ。オヤ、はばかりさま」
それじゃア何のことはない。まるで喧嘩を売りに来たようなものだから、いまチョイと湯殿を覗いて来て、もう、そこの横町に待たしてある駕籠の中に帰ってい
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