当った袷《あわせ》一枚に白木《しろき》の三|尺《じゃく》、そろばん絞《しぼ》りの紺手拭いで頬かむりをしている。暫らくの間に巷《ちまた》の埃《ほこり》によごれ切って、侍《さむらい》とも無頼漢《ならずもの》とも知れない、まことに異形《いぎょう》な風俗だ。長い刀《やつ》を一本ぶっ込んだまま、玄蕃を見上げて、相変らず美しい顔を笑わせている。ほとんど無心に見えるのだ。
 たださえギョッ! とした玄蕃だ。それが一層、この喬之助の放心したような態度には、言い知れぬ不気味《ぶきみ》なものが感じられて、しばらくは口もきけなかったが、やっとのことで、
「ヨ、よく来たナ、苦労したろう。エ? 苦労したでござろう。察する。察する。な、な、元通り気易《きやす》に願おう」
 刀を取ろうにも、刀は、喬之助が尻《しり》の下に敷いているのみか、まだ綱が捲《ま》いてあるのだから、たとい手にあっても、どうすることも出来ぬ。と言って、部屋を出ようとしたり、声を出そうとすれば、今にも喬之助の手に白刃《はくじん》が閃《ひら》めきそうに思われるのだ。玄蕃は、素手《すで》である。すっかり参ってしまって、俄《にわ》かに思いついて友達めかして懐しそうに出たのだ。そのうちには、言いつけて置いたとおり、屋敷の者も集まって来るであろうし、またあの、助勢《じょせい》を頼んでやった浅香氏も、駈けつけてくることであろう。それまでは、何事も穏《おだや》かに、おだやかに、飽《あ》くまでも下手《したで》に出て、この、一度血を見た若い獣《けもの》のごとき神尾喬之助を、何とかあしらって置かねばならぬ……と、思ったが、あぶない。傍《そば》へは寄れぬ。で、遠くから、うつろな笑いをつづけて、こうなると、万年平番士《まんねんひらばんし》も才が必要だ。柄《がら》になく、愛嬌《あいきょう》たっぷりに言ってみた。
「あはははは、神尾うじ、なア、済んだことは、済んだことではないか――ウウ、今ではナ、却って、わしら一同、貴殿《きでん》に同情を寄せておるのじゃ。いやまったく、貴殿が勘忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切られたのも、無理はござらぬて。今にして思えば、かの戸部近江と申すやつ、実にどうも悪辣《あくらつ》なやつであったな。よく思い切って斬りなすったよ。みんな、その、貴殿に感謝しておる訳さ。で、今日も番士一統|寄合《よりあ》いを開いてナ、連名の上、貴殿の
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