か、というのがハッキリ聞えて来たから、冗談《じょうだん》にしては灰《あく》が強すぎる。思わずゾクッ! と水を浴びた気の大迫玄蕃が、何事であろう? 誰であろう! 聞耳を立てながら、刀の綱をとく手を休めていると、途轍《とてつ》もない大声だから、皆に聞えたに相違ない。間もなく、下から人が廻ったとみえて、玄関口がガヤガヤし出したかと思うと、バタバタバタと廊下を駈けて来る跫音《あしおと》、それが、部屋の前にピタリ停まって、これもやっぱり、脳天から吹き出す声だ。
「との、との、殿様――」と来た。「ちょ、ちょっとお顔を――」
用人《ようにん》の源伍兵衛《げんごべえ》老人である。さては、自分の気の迷いで、廊下には何人も立ってなんぞいなかったのだと思うと、玄蕃《げんば》、一時に胆力《たんりょく》を恢復《かいふく》して、
「何だ、騒々《そうぞう》しい。豆腐屋《とうふや》を呼びに行くんじゃあるめえし、矢鱈《やたら》に走るな」
こんなように、好んで江戸がった崩れた言葉を使うのが、大迫玄蕃なのだ。さくい[#「さくい」に傍点]お殿様てエところを狙《ねら》ってるわけで。
ところが、用人源伍兵衛の語調《ごちょう》たるや、はなはだ尋常でない。
「豆腐屋どころの騒ぎではござりませぬぞ」と、障子を引きあけて、それこそ豆腐のように白くなった顔を覗《のぞ》かせ、「あァ、殿様……まだ生きていてよかった。祝着至極《しゅうちゃくしごく》に存――」
「黙れッ! ただいま玄関においても、余の生命を質《たず》ぬる声が致したようだが、今また、そのほうまで、まだ生きておってよかったと申す。まだまだ三十年や四十年は生きる心算《つもり》でおる拙者、さような言を聞くとは実もって心外であるぞ。第一、この通りピンピンしておる者が、そうコロコロ死んでたまるかッ」
「御意《ぎょい》にございます。なれど、そういう張紙《はりがみ》でございましたから――」
「張紙? 張紙とは、何の張紙か」
「はい。その、おいのち頂戴、只今参上と申す――」
「ナニ? 其方《そち》の申すことはサッパリ判らん」
「でございますから、一寸お玄関先までお越しを願います。一寸、殿様、ちょっと、まア、お腰をお上げ下すって――」
「それは、次第に依っては、出て見んこともないが、一体いま玄関で我鳴《がな》り立ておったのは、どこの何やつじゃ?」
「麹町平河町の町医長庵めに
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