じょう》し、その間は、仕事をしているごとく見せかけて、要領よくブラブラしていさえすれア、大した失態《しったい》のない限り、まずお役御免なんてことはない。徳川の世を万代不易《ばんだいふえき》と信じていたように、まことに悠々閑々《ゆうゆうかんかん》たる時代だったもので――。
「誰か――そこにおるのは」
 燭台《しょくだい》の灯影《ほかげ》で、つと大迫玄蕃は眉を寄せた。
 おや! と思ったのだ。ミシ!――縁《えん》の廊下の端《はし》で、板が、さながら人の重みで鳴ったような気がしたのである。
 から耳?
 そうだろう。下僕《げぼく》をはじめ家人らは、先刻《さっき》戸締りを済まして、今はもう銘々《めいめい》の部屋へ退《さが》ったあと。武家屋敷は夜が早い。今ごろ、この玄蕃の座敷の近くを、人の歩くはずはないのだ。
 おれはすこし神経質になっているようだ――神経質なンて洒落《しゃれ》た言葉は後世《こうせい》の発明だから、大迫玄蕃が知っている訳はないが、とにかく、そんなようなことを考えて、自ら嗤《わら》うもののごとくにつと白い歯を見せると、彼はそのまま、再び謡本《うたいぼん》へ眼をさらし出した。
 端坐の膝を軽く叩いて、手拍子《てびょうし》である。
 ――われはこのあたりにすむぎょふにてそうろう。
 謡曲《ようきょく》羽衣《はごろも》の一節、柄《がら》になく風流なところのある男で、大迫玄蕃が、余念なくおさらいに耽《ふけ》っていると、夜は戌《いぬ》の上刻《じょうこく》、五ツどき、今でいう午後八時だ。風が出たとみえて、庭の立樹《たちき》がゴウッ――潮騒《しおざい》のように鳴り渡って、古い家である、頭のうえで、家棟《やむね》の震動《しんどう》がむせび泣くように聞えてくる。それが、おのが口ずさむ謡《うた》いの声を消してしまいそうだから、玄蕃が、一段と声を高めて……これなるまつにうつくしきころもかかれり、とやった時!
 ミシ! またしても障子の外部《そと》の縁側《えんがわ》に当って、何やら重い物が板を踏《ふ》む音。
 大迫玄蕃、決して臆病《おくびょう》な男ではない。が、思わず、声を呑《の》んで、白けた眼が、うしろざまに床の間を顧《かえり》みた。そこに鹿の角の刀|架《か》けに二口の豪刀、大迫玄蕃が自慢の差料《さしりょう》で、相州《そうしゅう》お猿畠《さるばたけ》の住人、お猿畠の佐平太兼政が火と水
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