平馬と鶯
林不忘

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)棚引《たなび》いて

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)井上|伊予守《いよのかみ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぶらり[#「ぶらり」に傍点]と
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   鶯の宿

 麗かな春の日である。
 野に山に陽の光が、煙のように漂うのを見るともなしに見ながら、平馬は物思いに沈んで歩いていた。振り返ると、野路の末、雑木林の向うの空に、大小の屋根が夢の町のように浮んで、霞に棚引《たなび》いているのが見える。平馬の藩である。行手にもまたほかの町が見えていたが、平馬はべつにそこへ行くためにこの春の野の一本道を辿《たど》っているわけではなかった。
 ただどこというあてもなしに、歩きながら考え、考えながら歩くつもりでぶらり[#「ぶらり」に傍点]と家を出て来た平馬である。暖かい太陽の光を背中いっぱいに受けているうちに、いつしか半分眠っているような心持で、この方角へ足が向いたのだった。
 平馬。年齢十五歳。身の丈《た》け五尺五寸あまり。顔色あくまでも黒く、眼大きく、鼻高く、一文字の口に太い眉、それに、肩幅が広くて体じゅうに瘤のような筋肉が盛れ上っている――この辺で有名な怪童、威丈夫、剣客。
 その平馬がいま打割羽織《ぶっさきばおり》に野袴《のばかま》、手馴《てな》れの業物《わざもの》を閂《かんぬき》のように差し反らせて、鉄扇片手に春の野中の道をゆらりゆらりと歩いて行くのだ。人が見たら物騒な武者修業者が流れ込んで来たとでも思うかもしれないが、前後に人もなく、平馬は誰にも逢わなかった。
 国境に川がある。横笛川という。
 流れは、深いわりにさほど広くはないが、両岸の川原の幅が広いので、その全体に架《か》かっている橋はかなりに長いものだった。太い木を高く架けて、水中や川原に大きな柱が立っているのが、遠くからでも見られた。試みに橋の上から唾をすると、下へ落ちるまでに、しぶき[#「しぶき」に傍点]のように粉々になってしまう。それほど高い橋だった。月見橋という。この橋を境に、こっち側は平馬の藩、向う側は他藩ということになっていたが、平馬はいまその橋を渡っている。
 しかし、考えながら歩いていると自分がどこにいるのかわからないことがある。この時の平馬がちょうどそうだった。
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