駕籠と千浪のそばへ押し出されてしまった。
佐吉、宗七、由公、お多喜などが、先に立って手を叩き、音頭を取っているに相違ない。群集はわっという喝采で、四方八方からいろんな声が飛んで来る。
「さあ、早くやれ。」
「早く見せてくれ。」
それら叫び声のなかで、頭巾の奥に眼を凝らして、出羽はじっと千浪を見た。
千浪は心もち蒼ざめて、細く顫えているようだったが、落ち着いて出羽を見上げて、にっこりした。
「うん、この女も、おれがあの大次郎と代ったことを知らんと見える。ままよ、でたらめでいいからやってやれ。」
面白半分に、出羽はそう決心した。
三股追分《みつまたおいわけ》
で、この千浪に対しても、すっかり大次郎になり澄ましている出羽守は、頭巾の中からにこにこして、
「では、もう一度やろうか。そち、駕籠へはいってくれ。」
「はい。」
と答えた千浪が、いつものように裾をかばって、背を屈めて駕籠へはいろうとすると――!
この時である、群集の中から大声が飛んで来た。
「おい! 皆の衆、人間があの駕籠の中へはいって外からあんなに刀を突き刺しても怪我一つねえなんて、そんな馬鹿なことがあるもんか。これはぺてん[#「ぺてん」に傍点]だ!」
文珠屋佐吉の大声である。一瞬間、しんとなった群集の、今度は反対側から別の声で、
「そうとも! そうとも! 何か仕掛けがあるに相違ねえ。居合い一つで、そんなことができるわけはねえんだ。」
と叫んだのは、かねがね手筈をしてあったやぐら下の宗七だ。するとたちまち、女の声が後に続いて、
「そうともさ、いんちきに決っているよ。でも、ほんとに何も種はないと言うんなら、今度はあの女のかわりに、あの白覆面のお侍さんが駕籠の中にはいって見せるがいい。」
こう呼ばわったのは、筋書通りにお多喜である。
承知の由公が、すぐその尾について、
「そうだ、そうだ。今度は侍がはいって見せろ! 白覆面が駕籠へはいれっ!」
とんでもないことを言うやつだと、出羽守があたりを睨み廻している間に、群集心理というのか、人々はみな今の由公の言葉に雷同《らいどう》して、
「そうだ、今度は侍がはいれ、白覆面が駕籠へはいれ!」
境内を圧するほどの怒号叫喚となってしまった。
それを制しようと、両手を挙げて何か言っている出羽守の声は、すこしも聞えない。騒ぎはますます激しくなる一方。えらいことになったと驚きながらも、今さら引っ込みがつかず、諦めた出羽守は、どうせ手品だ、たいしたことはあるまいと千浪に向い、
「どうじゃな。わしがはいっても大事ないか。」
すると千浪はにっこりして、
「ええ、刀を突き刺すように見せかけるだけで、ほんとに刺すのではございませんから、誰がはいってもたいしたことはございません。」
そうだろうと出羽守は頷いて、
「それで、わしが中へはいるとして、刀を刺すのは誰かな。」
「ほほほほ。私がやりますけれど、今も申したとおり、ほんとに刺すんではございませんから、御安心遊ばして。」
もし、出羽守が思っているとおりに、彼女がこの出羽を大次郎と信じているならば、こんな説明的なことは言わないはず。が、出羽はそれには気がつかなかった。
「それでは、おれがはいるから、うまくやってくれ。」
と千浪へ囁いて、祖父江出羽守は、その赤い駕籠の中へ円く背を屈めて坐り込んだのである。
千浪はにっこり微笑んで、垂れを下ろす。群集は、今は鳴りをひそめて見守っている。
「どなたかこの綱で、駕籠をおしばり下さいまし。」
そう言った千浪の声を待たずに、ばらばらとそこへ飛び出したのは、これもかねての手筈によって、佐吉、宗七、由公、お多喜の四人である。
「こん畜生!」
などと低声に呟きながら、ぎりぎりに綱を掛けて縛ってしまう。
と、それを待っていたかのように、今まで境内の物蔭に身をひそめていた伴大次郎が、群集を分けて現れて来た。
寸分違わない二人の白覆面に、群集はあっと驚いたが、その間に大次郎は千浪と並んで駕籠の前に立ったかと思うとたちまち大音声に呼ばわった。
「これ! 祖父江出羽! よっく聞け。田万里《たまざと》の伴大次郎!」
背後にいる佐吉と宗七が、
「有森利七!」
「江上佐助!」
この三人の名乗りを聞いて、駕籠の中の祖父江出羽守、何か叫んで出ようとしたが、綱でしばってある。駕籠が一つ大きく横に揺れた。
千浪も大声に、
「弓削法外の娘千浪――!」
と叫ぶと同時に、伴大次郎の手には女髪兼安が抜き放されていた。この手品駕籠には、かつて使ったことのない女髪兼安を、今こそ彼は抜いたのだ。そして、千浪は早く! と促すより早く、千浪と大次郎と二人、女髪兼安の柄を持ち添えて、真正面から駕籠の真ん中を突き刺した。恐ろしい呻り声が駕籠を揺さぶった。祖父江出羽の赤い煩悩毒血が、赤い駕籠を赤く染めて、まるで噴き出すように散った。
こうして三人の煩悩児は、煩悩の利剣によって、煩悩をもって煩悩を制し、祖父江出羽を仕止めたのだったが――その時から、この兼安の刀面から、女髪は掻き消すように消えたと言われている。出羽の煩悩の血に満足して、煩悩の女髪、刀を離れたのだ。
あとで、その出羽の死顔から頭巾を外して見ると、彼の顔には恐ろしい刀痕が十字に刻まれていた。これは、小信に傷つけられた時のあとで、彼女が傷を負わしたのは、背中にだけではなかったので、出羽はそれを隠して、その時から弥四郎頭巾を被り、疵を癒しに、あの阿弥陀沢《あみだざわ》の猿の湯へ湯治に行ったのだったが――。この出羽守の疵痕が、大次郎の疵あとと寸分も違わなかったのは、これこそ恐ろしい煩悩の因縁と言うべきであろうか。
かくして、煩悩は無に帰し、三人はここに、名誉、金、女色の三煩悩を解いた。
大次郎と千浪は、小信を劬《いた》わって、また江戸への旅に――。
佐吉と由公は、煩悩小僧の罪滅ぼしに四国巡礼へ――。
宗七とお多喜は、中仙道を廻って、これも江戸への恋慕流しの夫婦旅。
その三方へ別れる追分で、佐吉が背後に両手を廻して、宗七の前に頭を下げながら、
「約束だ、縛ってくんねえ。」
「何を言ってるんだ。江戸じゃあ煩悩小僧かもしれねえが、これからは四国詣での巡礼さん――それに、この宗七も、もう十手を持つ手はねえ。元気でお札所を廻って来なよ。」
にっこり別れる三つの旅――また七年後七月七日まで――それまで三人離ればなれに世を送って、やがてはあの田万里へ集まって廃村を興そうと言うので、夕陽を追って、三組が三つの道へ別れて行く。その相良の城下はずれの追分には、何事もなかったように、上り下りの馬子唄と、馬の鈴の音がしゃらん、しゃららんと――。
底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1−13−21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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