、恐ろしい思い出が甦《よみがえ》ってくる。
さっきのお多喜が、八幡の縁の下に寝ていたこの小信を見つけた時、小信が独りでに口走った言葉、
「ほほほほほ、おかしいねえ。殿さまが女に斬られたりしてさ。」
といったのは、あれは事実なので。
狂人ながら、絶えず心にあることを、思わずひとり語《ご》ちたというわけ。
それは。
巻狩りの殿の眼に留まって誘拐され、彼女が田万里を去ってから、もう七年になる。恐怖と恥じと怨恨との連続だったさながら夢魔のようなこの七年間――。
自分は出羽守の一行に取りまかれてこの江戸の下屋敷へ送られて、そこで、ほかの多くの妾てかけとともに日夜殿の玩弄に身を任せなければならないことになったが――その、山を下りる時、かすかながら覚えているのは、父の伴大之丞が自分を助けようとして、単身、出羽守狩猟の人数へ斬り込んで無残な切り死をしたことと。
それから、後で風の便りに聞けば、この娘の悲運と老夫の横死を嘆き、主君出羽を恨みにうらんで、母はついに出羽の藩地、遠州|相良《さがら》の空を白眼《にら》んで自害して果てたという。
父母の仇、じぶんの敵!――七年間、耐え忍びながら機会を窺っていた小信は、とうとう、今から三月ほど前の月のない夜中に、この江戸の下やしきの寝所で、思いあまって出羽守に斬りつけ、混雑に紛れて屋敷を逃亡したのだった。
傷は、背中に深く一太刀――たいしたことはなかった。出羽は、平気だった。血の垂れる肩下へ手を廻し、立ち騒ぐ侍臣たちを制して、
「おれを斬るとは面白い女《やつ》、ははははは――。」
と、いつものように、たかだかと哄笑《わらい》を噴き上げていたが。
美しき残骸
豪放なところのある出羽守である。捕まれば、女の命はないにきまっている。殺すのも不憫《ふびん》と思ったものか、逃がしてやるつもりだったのだろう。
「なんのこれしきのことに、騒ぐなっ!」
家臣らを押さえている間に、小信は闇黒《やみ》を縫って庭伝いに屋敷を落ち延びたのだ。
大名が寝所で妾に斬られた。人に話もできない。この噂が世上に拡まれば、殿様はもちろん、祖父江藩の名折れになるばかりか、公儀の耳に入ったとなると、ただではすまない。どのみち、いい物笑いの種を播くのは知れたことなので、小信を斬ればその評判も立ちやすいと、そこですべてを内証に葬る考えから、出羽守、とっさに思案して家来たちを取り鎮め、それとなく、彼女に脱出の機会を、与えたのかもしれなかった。
そして、極秘のうちに背の刀傷を癒すべく、山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、気に入りの側近のみを伴《つ》れて人知れず、金創に霊顕ありとすすめる者のあったままに、あのあみだ沢の猿の湯へ湯治に行ったのだった。
御微行《おしのび》――どころか、身分を隠しての逗留なので、江戸を出てから帰るまで、ああして白の弥四郎頭巾に、すっぽり面体を押し包んで。
内に猛り狂う煩悩を宿し、外に、おのれを仇とつけ狙う三つの煩悩の鬼ありとも知らず、祖父江出羽守、千浪のやさしい顔姿に煩悩の火を燃やした末、弓削法外先生を討ち果たし、二重に、伴大次郎に、かたきとつけ廻されることになった。
奇しき因縁――とは言っても、伴大次郎、無論あの白の弥四郎頭巾を祖父江出羽守とは知る由もなかった。
一方、出羽の屋敷を逃れ出た小信は――。
怖いもの知らず。
殿様に斬りつけた時から、可哀そうに小信、すでに狂っていたに相違なく、とにかく、跣足《はだし》で街に走り出た彼女は、もう立派にたましいの抜けた残骸だった。
活《い》けるしかばね――となって、あれからこっち、材木置場や町家の檐下で、寺社の縁などに雨露をしのいで江戸の町まちを当て途《ど》もなしにほっつき歩き、きょうこうしてはからずもお多喜の眼に触れて、その宗七の家へ引き取られたという仔細《いきさつ》。
が、この三月まえの出来事はもとより、七年来の悲しい歳月は、いま小信の意識《こころ》の底に埋められているだけで。
宗七とお多喜が両方からかわるがわるいろいろ尋ねても、何の反応もないので、ふたりともしまいには黙り込んでしまった。
お多喜はほっと深い溜息を洩らして、宗七へ向い、
「どうしたもんだろうねえ。しばらく家に置くとしても、大家さんへ話しておかなくちゃあ悪いだろうねえ。そんなことをして、面倒な係合いになっても詰まらないし――。」
何か考えていた宗七が、ぽんと小膝を打って起ちかけた。
「うむ、そうだ! これの兄さんで伴大次郎、じつあ三国ヶ嶽でその旦那に会って来たんだが、その節の話じゃあ、なんでも下谷の練塀小路、法外流とかいう剣術《やっとう》の道場にいると聞いたが――。」
「この女《ひと》の兄さんがかえ。そりゃあお前さん、うってつけの話じゃあない
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