風|光《ひかり》を駐《とど》めず
雁《かり》去って雁|影《かげ》を残さず」
[#ここで字下げ終わり]
朗々たる歌声、闇黒《やみ》に呑まれて。
浅い縁《えにし》。
短い夫婦《みょうと》の契り――ほんとに、夢だったかもしれないと、得耐《えた》えず門柱に凭《よ》りかかった千浪は、いつしか地に伏して泣きじゃくっていたのだった。
白絹の紋服。
おなじく白の弥四郎頭巾に、妖刃女髪兼安を腰にぶっ差して。
あたらしい顔とともに、新しい人間に生まれ変った小鬼大次郎、胸中ふかく蔵するのは何か?
が、こうしてふっつりと煩悩《ぼんのう》の綱を断ち切った気の伴大次郎も、畢竟、眼に見えぬ煩悩の綾糸に手繰られ、躍らせられているのではあるまいか。
所詮、生そのものが煩悩。
生きているあいだは、人間、煩悩の児なのかもしれない。
それはそうと。
ふたたび言う。この夜から、八百八街の辻々に、完全に同じよそおいのふたりの祖父江出羽守《そふえでわのかみ》が出没することになったので。
二人白衣――。
いずれをいずれとも見わけがたい。
あの、三国ヶ嶽山上の七年目の会合と、月の笠の予言した阿弥陀沢名物お山荒れと、見てはならぬ女髪剣のみだれ焼刃を覗いてしまった大次郎と、猿の湯の猿を斬ってその血に走る刀で、弓削法外先生を斃した、煩悩魔祖父江出羽と――果して! 渦紋は擾乱《じょうらん》を呼び、事件は展開を予約して、場面はいま、大江戸に移っているのだ。
大次郎を失った千浪のこころ――。
そしてまた。
七年前に虐君出羽への復讐を誓って、名、金、女の三煩悩を追って三つに散った山の若者のうち。
今。
金を受持った江上佐助は、文珠屋佐吉と名乗る為体の知れない人物となり、もっとも危険な煩悩、おんなの係の有森利七はその女毒に当って意地も甲斐もない巷の遊芸人、恋慕流しの宗七と化し去り――ところが、この宗七、じつは、十手をお預りして黒人《くろうと》仲間に隠れもない捕物名誉だとのこと。
その宗七の留守中に、女房お多喜が富ヶ岡八幡から拾って来た美しい狂女を見て、三国ヶ嶽から帰宅《かえ》って来た宗七、持前の頓狂な大声で、叫んだものだ。
「ややっ! あなたは田万里の――! あの伴、伴大次郎の姉うえ、小信さまでは――。」
やぐら下宗七宅の場
土橋、仲町、おもて櫓、裏やぐら、裾つぎ、網打場、大新地、小新地――ふか川。
あそびの世界。
価い、昼夜十二匁ずつの五つ切り、あるいは昼二歩二朱、夜一分、ひと切り二朱など、さまざま。
栄喜横町、仲町の尾花屋、大新地の大漢楼《だいかんろう》、五明楼《ごめいろう》、百歩楼――屋根船を呼ぶ舟宿の声。
この二枚証文の辰巳七個所の色まちのなかで。
矢倉下――恋慕流し宗七とお多喜の住いは、ここの路地奥にあるのだ。
格子から土間を一跨ぎに、上ったところが六畳ひと間っきりの家で、表看板商売物の三味線が懸かっているだけ、身を秘しての捕物稼業だから、お役風を吹かせる朱総《しゅぶさ》の十手やとり繩などは、壁にぶら下がっていない。
其室《そこ》の、うす赤く陽に染んだ畳に。
惨めに狂っている大次郎の姉、小信を中に挾んで、お山帰りの宗七とお多喜、じっと顔を見合っている。
出しぬけの良人の言葉に、お多喜は愕きの眉を上げて、
「まあ! お前さんはこの女《ひと》を知ってるのかえ。」
それには答えず、小信の横へちょこなんと膝を揃えて坐った宗七は、
「小信様! お見かけするところ、あなたあ変《ひょん》な御様子だがこりゃあまあいったいどうなすったというので――あの出羽、いや、祖父江出羽さまのお眼に留まって、田万里から伴れ出されてから、今までどこにどうしてお暮らしなされた――。」
と彼は、真剣の色を面《おもて》にあらわして、小信の顔をさし覗くのだった――。
相手は、うつ向いて袂の端を弄んでいるきり、答えない。
お多喜は先刻《さっき》、八幡のお社の縁の下で、この小信を発見《みつ》けて家へ伴れ帰った顛末を話した後、
「気が違っておいでなんだもの。何を訊いても、分別《ふんべつ》のつくわけはないよ。それにしてもお前さんは、あたしの識らないことばかり言い出すんだねえ。祖父江出羽守だの、田万里だのって――この女は小信さんって名で、その伴何とかさんの姉さんだって。」
お多喜が不審に思うのは当然で、有森利七の宗七は、じぶんの出身については、女房のお多喜にも何ひとつ明かしてないのである。
夫婦《ふたり》の会話《やりとり》をぼんやり聞いている小信は、まるで薄桃色の霞のなかに生きているような気がするだけで。
何の記憶も、意識もない。
だが、いま――。
田万里、祖父江出羽守、伴大次郎――という名を耳にしたかの女のこころに、朧気《おぼろげ》ながら
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