分で笑って、
「この面《つら》だから、この年齢になるまで、おんなに惚れたの腫《は》れたのってえことアなかったが――それに、おれア金がほしいの一天張りで、文珠屋てえ宿屋ア世間ていの装り、裏へ廻りゃア商売往来の陰を往く夜盗を稼ぎ、それで金を溜めて来たが、なあ与助、世の中あ佐渡の土だけでもなさそうだぜ。」
 まったく――かれ文珠屋佐吉こそは。
 いま江戸を騒がせている煩悩夜盗なので――と言うのも、祖父江出羽守への復讐を誓って、その資金の係りを笹くじで引き当て、金の煩悩を追って三国ヶ嶽を下山した江上佐助ではあったが、裸か一貫の青年を、どこへ行ったところで金のほうで相手にしようはずはないのだった。
 江戸へ出て無職の日を送り、飢餓に迫った佐助は、とうていこの分では富豪になれないどころか、乞食《ものごい》をしても活《い》きて行けないかもしれないと覚って、と言って、黄金に対する火のような煩悩は断ち切れない。七年後の山上の会合に、相当の成績をもって二人に見《まみ》えるためには――と、ここで性来《うまれつき》人なみ外れて身が軽く、それに山奥育ちで木登りは十八番《おはこ》、足も滅法早いところから、さっそく盗賊に早変り、そのぬすんだ金の一部を資本に、この文珠屋という宿屋の出物を買って世間の眼をくらまし、押し入った先々にいたずら半分社会への意趣晴らしのこころも罩《こ》めて、かならずそこらへ書きのこしてくる。煩悩小僧の名を取って、今では。
 由公、与助の二人を乾児に、店のほうもかなり繁昌しているし、もう一つの稼ぎもなかなか大きい。だがこの、顔が怖いだけで苦労人、結構人の文珠屋の主人が、あの評判のぼんのう小僧とは、このふたりのほか、店の使用人も誰も知らないので。
 その与助と由公も、佐吉親分はただの泥棒と思っているだけ、どうしてこんな暗い道に踏み込んだかその真の目的《めあて》は何であるかそんなことは、佐吉もかつて打ちあけたことはなし、二人より何人にも察しようのないことだった。
 女を置かず、客の用から拭き掃除まで、みんな男を雇って済ましているのは、女は眼はしがきいて口に締まりがないというので、この大秘密を保たんがためではあったが、それよりも、佐吉が大の女嫌いという建前。
 じつに、おしろいのにおいを嗅ぐと、三日飯がまずい――というところから、下男ばかり何人も置いているのだが、江戸というところは、何でも奇抜でさえあればいい、その風変りな点が当りを取って、老人客や、茶人めいたかわり者のあいだに、この伝馬町の文珠屋は、なかなか評判がよく、江戸へ出ればここときめている定連も、かなり尠くないのだった。
 が、女を使わないというだけで、女客を断わるわけではない。事実、急ごしらえの出あい夫婦、つれ込みが、文珠屋の泊り客の過半なので、おんながいないだけに、うしろめたい女客には、かえって気が置けないのかもしれない。
 その、世の中に金以外、女に用のないはずの文珠屋佐吉は、先日旅に出て帰宅《かえ》ってからというものは、めっきり味気ない顔つきで、ことに今日は、じぶんの高札を見てすっかり腐ってしまったと言う。
 いつもは、そんな文珠屋ではないのであるが。
 たとえ鼻の先へ百本千本の十手が飛んでこようとも、どっかり胡坐《あぐら》で吐月峯《はいふき》を叩いていようという親分。高札なんどせせら笑って、かえって面白がってこそ文珠屋なのに。
 ほかに理由《わけ》があると睨んだ与助の推測どおり、心に思っている女があって、善良《まとも》な生活が恋しくなったと言う告白だ。二十七の物思い――鬼瓦の文珠屋が恋風を引き込んだ。
 山だろう――このあいだの山の旅で、何か知らねえが、おんなを見初《みそ》めて来たのだ、と与助、おかしいが笑いもならず、それにしても、いったい何しに山などへ? と胸の隅で不審《いぶか》りながら、
「親分も焼きが廻った。女一匹で善心とやらに立ち返るようじゃあ、あっしもこころ細い。諦めやした。ようがす。あのほうの足アふっつり洗ってみっちりこの宿屋商売に身を入れよう。」
 佐吉の性質を呑みこんでいるだけに、心得たやつで、考えている逆を言う。
 そうあっさり賛成されてみると、佐吉は呆気ない顔つきで、だが、じぶんで言い出したことなので所在なさそうに、
「だからおれあ、稼業のぐあいはどうだと、訊いてるじゃあねえか。」
「へえ。まあ、どうやらどうやら、部屋あ塞がっていますがね――親分、一言伺いやすが、その、旅で、お見そめなすった女ってなあ、この江戸のものでがしょうな。」
 佐吉がくすぐったそうに、
「当りめえよ。それがどうしたと言うんだ。」
「いえねえ、どこの娘――むすめだか女房だか知らねえが、どこの何ものてえことは、わかってるんでごわしょうね。」
「解ってるような、わかってねえような。」

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