御府内を恐怖と、疑惑の淵に追いこんでいる、この煩悩夜盗!
 それが再び活躍をはじめたというので、
「もっとも、おめえが旅に出ていたこの十日間がほどは、煩悩小僧もじっとおとなしくしていたとみえて、押込みの届出もねえようだが――。」
 川俣伊予之進が、しずかに言っていた。
 何か思案の底に沈んでいた宗七は、この時、いつになく蒼白く緊張した顔を上げて、
「あっしが山へ行ってるこの十日のあいだは、煩悩小僧も出なかったとおっしゃるので。」
「宗七! おめえ何か心当りがあるんじゃあねえのか。」
 心あたり?――なくてどうしよう!
 彼にとって忘れることのできない、「煩悩」の語を冠した賊ではないか。
 何者の仕業? ということは、宗七には早くから眼あてがついているのだけれど――その煩悩小僧の目的を知っている彼としては、手をだしたくない。出せない!
 もうすこし、うっちゃっておきたい気もちだったのだが――。
 志があって、非常手段で金を集めているに相違ないぼんのう小僧、そのうちに引っこむだろうから、邪魔したくないと思っていた宗七なのだけれど、またぞろ出没し始めたと聞いては、お役を承る身、このお捕物御免とは、逃げていられない。
 ことに、恩顧のある川俣様御自身出向いての話――。
 覚悟を決めた宗七が、
「ようがす。ひとつ、嗅《け》えで歩きましょう。」
 と、腰を浮かしかけた時、今まで黙ってうな垂れていた小信が、突然、顔を上げて、
「ほほほ、だって、おかしいじゃないか。殿さまのくせに、女に斬られるなんてさ――。」
 大きな、ハッキリした声だった。ぎょっとした三人の中で伊予之進は、初めて小信の存在に気がついて、
「えっ、何だって?――おう、宗七、なんでえ、この髱《たぼ》あ。」
 川俣、聞き咎めた白い眼を、じろりと、宗七お多喜へくれた。

     砥石店

 お江戸の繁華は、ここ日本橋にひとつに集まって。
 八百八丁の中央、川の両岸が江戸をまっぷたつに割って、江戸から何里、江戸へ何里という四方の道程《みちのり》は、すべてここを基準にしている。八方の人家、富士のすがた、日本六十四州からのお上りさんは、都へ来ると、誰しも、まず第一にこの橋を渡る。西のほうには千代田城の雄壮な眺め、物見の高殿、東の岸には、まるで万里の長城の酒庫の白壁がならび、そのむこうは眼もはるかに人家の海――。
 日本橋と言えば魚河岸。
 魚がしといえば日本橋。
 川のうえの魚ぶねは、その苫《とま》を魚鱗《うろこ》のように列ねて、橋桁の下も、また賑やかな街をつくっている。
 雑沓を極める橋の上の往来。
 諸侯の行列にはいくつとなく長柄の槍が立って、さながら移動する林のようである。武士、町人、諸職、僧侶、男、女、こども、さまざまの車と、駕籠乗物、下駄の音が秋空にひびいて、切れ目もなくあわただしい。
 近海物の魚を積んで、船は躍るようにはいって来る。河幅が狭いから、その混雑はたいへんなもので。
 おもかじ!
 とりかじ!
 どなりあう声、声、声――。
 橋の前後、新場町と小田原町に、毎朝うお市場が立つ。
 なまぐさい風が橋を撫でて、この二十七間、日本橋の南の袂は高札場、ちょうど蔵屋敷、砥石店の前である。
「大次様! 大次郎さま――。」
 ひき裂くような声に呼びとめられて、大次郎は、ゆっくりと振り返った。
 練塀小路の道場を出て、これで何日経ったか。
 あのままの姿の大次郎、祖父江出羽守と寸分違わぬ雪白《せっぱく》の弥四郎頭巾、白い絹に、黒で賽ころの紋を置いた着流し――こげ茶献上をぐっと下目に、貝の口に結び、此刀《これ》があの女髪兼安なのであろう、塗りの剥げかかった朱鞘と、じぶんの蝋ざやの脇ざしとを、奇妙な一対に落し差して。
 この大次郎、下谷を出て以来、今までここに潜んで何をしていたのか――。
 ぶらりと来かかった高札の前である。
 呼ぶ声に何もの? と見向いたかれのまえに立ったのは、残して来た若妻千浪の、眉のあとの青い顔ではないか。
 あたりはいっぱいの群集だが、みな御高札をふり仰いでいて誰も気がつかない。
「や! そなたは何しにここへ――また、何の用ばしござって拙者に声をかけられたか。」
 大次郎様にしては、すこし声が太過ぎるようだ――と、千浪は思ったけれど。
 それに。
 頭巾の中から覗いている鼻柱も、赤く高く、眼が暗く澱《よど》んでいるようではあるが。
 何も気のつかない千浪は、
「大次郎様――。」
 ともう一度、低声につぶやいて、そっとその白覆面白装束の武士に寄り添《そ》った。
 この千浪は、
 良人大次郎は家出したものの、自分を嫌い道場を厭って去ったものとは、どうしても思えなかったので。
 お顔がああ変ってからというものは、事ごとに自分に辛く当って、まるで別人のように忌《いま》
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