とっさに思案して家来たちを取り鎮め、それとなく、彼女に脱出の機会を、与えたのかもしれなかった。
 そして、極秘のうちに背の刀傷を癒すべく、山路主計、中之郷東馬、川島与七郎、北伝八郎など、気に入りの側近のみを伴《つ》れて人知れず、金創に霊顕ありとすすめる者のあったままに、あのあみだ沢の猿の湯へ湯治に行ったのだった。
 御微行《おしのび》――どころか、身分を隠しての逗留なので、江戸を出てから帰るまで、ああして白の弥四郎頭巾に、すっぽり面体を押し包んで。
 内に猛り狂う煩悩を宿し、外に、おのれを仇とつけ狙う三つの煩悩の鬼ありとも知らず、祖父江出羽守、千浪のやさしい顔姿に煩悩の火を燃やした末、弓削法外先生を討ち果たし、二重に、伴大次郎に、かたきとつけ廻されることになった。
 奇しき因縁――とは言っても、伴大次郎、無論あの白の弥四郎頭巾を祖父江出羽守とは知る由もなかった。
 一方、出羽の屋敷を逃れ出た小信は――。
 怖いもの知らず。
 殿様に斬りつけた時から、可哀そうに小信、すでに狂っていたに相違なく、とにかく、跣足《はだし》で街に走り出た彼女は、もう立派にたましいの抜けた残骸だった。
 活《い》けるしかばね――となって、あれからこっち、材木置場や町家の檐下で、寺社の縁などに雨露をしのいで江戸の町まちを当て途《ど》もなしにほっつき歩き、きょうこうしてはからずもお多喜の眼に触れて、その宗七の家へ引き取られたという仔細《いきさつ》。
 が、この三月まえの出来事はもとより、七年来の悲しい歳月は、いま小信の意識《こころ》の底に埋められているだけで。
 宗七とお多喜が両方からかわるがわるいろいろ尋ねても、何の反応もないので、ふたりともしまいには黙り込んでしまった。
 お多喜はほっと深い溜息を洩らして、宗七へ向い、
「どうしたもんだろうねえ。しばらく家に置くとしても、大家さんへ話しておかなくちゃあ悪いだろうねえ。そんなことをして、面倒な係合いになっても詰まらないし――。」
 何か考えていた宗七が、ぽんと小膝を打って起ちかけた。
「うむ、そうだ! これの兄さんで伴大次郎、じつあ三国ヶ嶽でその旦那に会って来たんだが、その節の話じゃあ、なんでも下谷の練塀小路、法外流とかいう剣術《やっとう》の道場にいると聞いたが――。」
「この女《ひと》の兄さんがかえ。そりゃあお前さん、うってつけの話じゃあない
前へ 次へ
全93ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング