は預けとくぜ。」
「お知り合いの方なのでございますか。」
「ふふん。」と大次郎は、遙か眼下の沢へ笑って、千浪へ、「いや、なんでもござらぬ。先刻追うて来る途中、ちょっと道で逢うただけのことで――それより、先生が心配でござる。だいぶん重傷《ふかで》のようでしたが――さ、急ぎましょう。」
二人は、手を取り合って、上の阿弥陀沢へ引っかえした。
不覚にも、女髪兼安が手近になかったためか、そして、出羽の刀が四足の血に滑っていたせいか、法外先生の傷は、思ったより深かった。
法外流を編みだした練塀小路の老先生が、あんなことで肩を割りつけられるようなことはないのだけれど――物の機《はず》みとでも言うのだろうか。
金創に霊験あるはずの猿の湯も、法外先生の傷にはきかなかった。
あの、白覆面の乱暴武士が、お猿さまを斬り殺したために、猿の湯は効能を失った――あみだ沢の里人は、ひそかにそう言い合ったが、事実そうなのかもしれない。
秋が来て、満山の紅葉燃ゆるがごときころ、老体の弓削法外はこの傷が因《もと》で、千浪と大次郎に左右の手を取られながら、にっこりと寂しく、息を引き取ったのだった。
それは、山々に秋が深まって、阿弥陀沢に霜柱の立った朝だった。
転身異相画
その法外先生が永遠《とわ》の眠りにつく時、枕辺の大次郎と千浪の手に、痩せ細った手を持ち添えて握らせ合い、
「改めて許す。今から、夫婦《めおと》じゃ。末長く、な。」
千浪は、父の背に泣き伏して、大次郎の眼からも、大きな涙が、その、顔ぜんたい繃帯に包まれた上を滴り落ちる。
「泣くな、千浪。命数をまっとうして世を去るのが、なんで悲しいか――大次、女髪兼安と、道場を譲るぞ。千浪を頼む。道場を、な、道場をわしじゃと思って、盛り立てて行ってくれい。」
「先生! あの白の弥四郎頭巾の武士を、必ず捜しだして、きっと仇敵《かたき》を討ちます!」
「先生ではない。父と呼べ、父と――。」
「父上! お恨みは、この大次郎がきっと霽《は》らします。」
女髪兼安の鍔を丁! と鳴らす。金打《きんちょう》して、耳もとに叫ぶと法外先生は微笑を洩らしたきり、それなり一言も口をひらかずに、逝《い》ったのだった。
村人の手で、遺骸は荼毘《だび》に付した。お骨を捧げて、今日は明日は江戸の道場へ帰ろうと思いながら、大次郎の傷の癒えも進捗《はか》ば
前へ
次へ
全93ページ中38ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
林 不忘 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング